間宮林蔵がのちにシーボルトが名付けた「間宮の瀬戸」 この時はまだ、タタール海峡或いは韃靼海峡と呼ばれていたのだろうか。最狭間の7.3kmの向こう岸に何を見ていたのだろうか。真の発見者が記録されている以上、函館奉行所は、林蔵の仕事ぶりには満足していなかったのかもしれない。上から厳しい叱責を受け、再びこの地に戻り探検を続けようとしていたのかもしれない。ここで間違いなく彼の仕事はいい加減なものでないことは彼自身の記録でもあった「東韃紀行」の文章やスケッチ(上部の画像)に見ることが出来るのです。まさに彼は立派な探検者であり、研究者である。ただ、誰でもありがちな興味の及ばぬところには逃亡者になりやすい性格かもしれない。それが松田伝十郎の海峡の発見によって、樺太東海岸最北端迄の足を止めてしまったのかもしれません。名誉回復というよりは彼の探求心が国禁を破ってでもアイヌの人たちの案内で山丹の地へそしてそこから韃靼人に案内人を変えて、沿海州より深く黒竜江流域にあったと言われるデレンと呼ばれる当時の清国の仮役所に足を踏み入れることになるのだ、この地は当時金王朝から後金となりモンゴル人や露西亜人を追い払い、その力となった女真族の軍事力を統治し、やがて明を打ち払い最終的には彼ら満州人の国家、日本による傀儡政権満州国となる。そしてラストエンペラーと言われる皇帝、愛新覚羅溥儀を以て中国の王朝時代の終焉を終戦とともに迎えてしまった。最初日本人を見た清国の役人に林蔵はどのように見えたのだろうか。奇妙な髷を頭に載せ、大小を帯び、筆記具を見合わせ、しかも漢字文化を身に着けている。唯の東方の蛮人ではない。彼らは林蔵を彼らが宿営している船での食事に誘った。国は違えど同じ役人であると感じたのかもしれない。漢字による情報交換は当然為されたのは誰もが想像できるだろう。この交易がどのようなものか、どのようなものが取引されていたのか。それを知ることが出来た。そして、彼らの備えられた知性と理性が、この探検を無事に終わらせたとも言える。
Mamiya Rinzo later named by Philipp Franz von Siebold as “Mamiya Strait.” Was it still called the Tatar Strait or the DATTAN Strait at that time?What could they have seen on the other side of the 7.3 km wide strait? Since the true discoverer is documented, the Hakodate Magistrate Office may not have been satisfied with Rinzo’s performance. In his records, ‘Eastern Tartar Travels,’ it’s clear that his work wasn’t sloppy. He was indeed an outstanding explorer and researcher. However, like anyone else, he might have easily become a fugitive when something didn’t catch his interest. The discovery of the strait by Denjiro Matsuda might have stopped him at the northernmost point of the east coast of Sakhalin. It wasn’t about restoring his honor but rather his curiosity that led him to break the national ban and, guided by the Ainu people, travel to the land of the Shandan. There, he changed his guide to the Tartars and went deeper from Primorsky Krai to a provisional office of Qing China, called Deren, in the Amur River Basin. This place, which was originally part of the Jin dynasty before becoming the Later Jin, expelled the Mongols and Russians, governed by the military power of the Jurchen people, and eventually drove out the Ming to establish their own Manchu state, which later became the puppet state of Manchukuo under Japan. With the last emperor, Aisin Gioro Puyi, the era of Chinese dynasties came to an end with the war’s conclusion. How did the Qing officials first perceive Rinzou upon seeing a Japanese? He had a strange topknot on his head, carried both small and large swords, used writing instruments, and was familiar with the Chinese character culture. He wasn’t just a mere barbarian from the East. They invited him to meals on the ship where they were staying. Maybe they felt he was a fellow official, despite being from a different country. Information exchange via Chinese characters was certainly carried out, as anyone can imagine. He was able to understand what kind of trade it was and what was being traded. Their intelligence and rationality ensured the safe completion of this exploration. by chatGPT
※ If you can speak a little Japanese, I might be able to assist you. I am also studying English.
皇帝服である龍袍ロンパオを創り上げるこの織機は「大花楼木織機」と呼ばれ、長さ5.6メートル、幅1.4メートル、高さ4メートルの伝統的な織機で、形は大きいがその構造や機能はとても精巧である。織機は二人が協力して操作し、下には「織手」が、上には「拽花工」がいて、彼らは織布の際、縦糸と横糸を交差させる五つの手順の操作を行う。この二人は織機が出す音を聞きながら協力し合い、二人の熟練工で毎日5センチ程度の雲錦しか織り出すことができない。皇帝の礼服一着分に2年以上の時間が必要で、「錦一寸金一寸」と言われるほどの価値があった。
山丹貿易とアイヌ民族
デレンの地で行われる山丹貿易は一年ごとに閉鎖され、その際、清国の役人たちは自分たちの着ている官服がこの交易の中でも重要なアイテムであることを知っていた。清国では貴重なクロテンの毛皮などに交換され自分達の大きな享受になりえる為にそこで、それを脱ぎ渡します。それが「蟒袍」すなわち、「蝦夷錦」という北のシルクロードにおける宝のひとつなのです。これを当時の蝦夷地を掌握し始めた蠣崎氏や、北前船の商人たちが知らぬはずがありません。今の私たちも目を見張るほどの当時の清国の文明的工芸品ともいえる官服です。いまだ日本ではそこまでの文化的な技術を持ち合わせていませんでした。北前船による日本国内での交易にも重要なアイテムとなったのは間違えありません。アイヌによりもたらされる「蝦夷錦」は、多くの歓喜と悲哀に満ちた運命を伴って、時代の波に現れる。恐らくは、この北前船は加賀前田藩の港湾でも商いを行い藩主の目にも留まっており、やがて藩主は徳川家康にもこの工芸品を紹介したと思われ、その際に、蠣崎慶広がそれを献上すること条件に当時の権力者の機嫌を前田利家と共に分かち合ったことが想像できます。これより以降は蠣崎氏は徳川、前田家へ献上を続け、のちに家名を両家より拝領する「松前家」となったとも言われております。
1868年開拓使判官松本十郎がそれを禁止するまででした。左手に紹介しているのは、2015年に自分が友人と北海道博物館の当時アイヌ民族の研究部長だった小川先生にお願いして、撮影したもので、所有権は北尾家で、管理を先生の研究センターで行っていたものだと教えて頂きました。
この時代、すなわち鎖国時代の中国の貿易は蝦夷地を治めていた松前藩でも叶わぬことであり、その代替え交易をしていたのが樺太アイヌ。更にそれより蝦夷錦は蝦夷地のアイヌにわたり、最終的に松前藩の手に入る構図でありました。
皇帝服ロンパオは二人の職人が大きな織機を2年間操り、完成するほどの豪華なもので、当初は織物であったが、技術の発展と共に近代に近い者は染色によるマンパオが流通するようになった。今でも、中国本土では本物のロンパオは数百万の値で取引されているそうです。
もともとは中国中心地で作られたこのマンパオは北の樺太蝦夷地の松前藩から、北前船に乗り、東北、京都、九州にまで交易品として日本全国の需要に応えるようになります。特に、京都の夏のお祭り八坂神社は水神、龍神が神様。祇園の曳山に使われる装飾には都であるが故に世界中から飾られる装飾の中にこの「蝦夷錦」も多く使われていて、当時の流通の大きさに感動すら覚えてしまいました。
この経済、文化の流通に関しては北海道大学でも研究課題で調査されたようです。札幌に来られた京都の観光客の皆さんにこれをお話ししますと、「暑いけど、今年は山鉾見に行ってみるか。」と言ってくれました。
北九州の名護屋城は朝鮮出兵の拠点として秀吉が築いたものだった。集まる武将の中で見慣れね胴衣を身につけていたある人物がいた。。絹地に龍や雲の細密な刺繍が金糸、銀糸で施された見事なものだった。裏には手引白木綿地と水色絹地が用いられていた。異国風であった。
その武将の名は『蠣崎慶広』(よしひろ)。第5代当主であった。秀吉は上機嫌だった。北の外れの蝦夷地の島主が秀吉に謁見しに九州までやってきたのである。『西方の朝鮮に侵攻の算段している時に、思わず、北方の遥か蝦夷地の領主が遠路から駆けつけてくれたのは、神妙のいたりである。』秀吉は慶広に朱印状をあたえ、朝鮮出兵よりも優先すべき蝦夷地支配を認めた。
それにしても何という見事な胴衣であろうか。その際引見した徳川家康は、子供のようにその胴衣を無心した。慶広はその場で胴衣を脱ぎ、家康に献上したという。その後は彼はそれを大名間の外交の武器とした。
廻りの多くの武将が文明が果てるような、当時の蝦夷地になぜそのようなものがあるのか?皆不思議に思って尋ねたが、慶広は自身も詳細は分からず、アイヌから入手したとしか語らなかった。蠣崎から松前への改名、松前は松平と重臣前田からの造語と言われているらしい。
Recently, in the scorching summers of Kyoto, the festival ‘Gion Yamahoko,’ held by Yasaka Shrine, is a well-known sight. The guardian deity of the shrine is said to be a water god, and though I can only watch the beauty of the yamaboko procession on television from cool and distant Sapporo, it seems that the maedare (front drapery) decorating these yamaboko sometimes feature ‘Ezo brocade.’ It’s said that even in the designs of the distant ‘Nagasaki Kunchi’ festival, there is ‘Ezo brocade’ that appears to have been re-tailored. The crafts of Qing China (formerly the Jin dynasty) were highly valued and were re-tailored into various items such as jinbaori (military camp coats), kabuki costumes, Buddhist monks’ robes, and parts of bookbindings, embedding themselves into Japanese culture. From the central cities of Shenyang (sister city of Sapporo) and Beijing in Qing China to Deren in Primorsky Krai, Sakhalin, Ezo, and from Matsumae to the Noto Peninsula, Kaga, Wakasa Bay, Maizuru, Matsue, and northern Kyushu, the beauty of these brocades increased in value each time they passed from ethnicity to ethnicity and person to person, inadvertently forming the northern Silk Road.
松前高校
【松前】2013年 松前高校は30日から11日間の日程で、松前ゆかりの名画「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」の原画があるフランス・ブザンソン市に生徒2人を初めて派遣する。石塚耕一校長は「幻の名画と呼ばれた夷酋列像が松前で描かれ、今はフランスに存在することを知り、生まれ育ったまちに誇りを持ってほしい」と話している。
2015年9月北海道新聞社などの主催で、北海道博物館の記念展示おいて、フランスのブザンソン美術館で発見された蠣崎波響の「夷酋列像」を見る機会を得ました。私は当時、観光ガイドとしては、よちよち歩きで、アイヌ文化すら齧ったこともなかった。だが、この波響の中国南陳派と呼ばれる画法は美しく、波響の別の花鳥風月の画像の写実の緻密さに思わず、この「夷酋列像」に興味がいかないわけがなくなった。だが、自分より、はるか前にそして、自分よりはるかに若くして興味を抱いた人たちがいました。それが道立松前高校の生徒さんたちでした。彼らがブザンソン美術館を訪れ、夷酋列像を見つけ出し、今回の展示につながる立役者であったのは間違いのないことであり、私を含め、多くの人たちが何故にこのような魅力を抱かせるのか探求心に囚われて、いまだに自分がその呪縛を逃れていないことにある意味では安堵している。博物館で実際に見た印象はその画像が思ったより小さく、照明の影響なのか鮮明さに欠けていたような気がした。実際に「蝦夷錦」の上にロシアの軍服を着せられ、スケッチさせられたのだろうか。それともこれらの交易品とアイヌの酋長たちを見つめながら、蠣崎波響はそれを楽しみながら書き上げたのだろうか。江戸幕府に対して、如何に松前藩が露西亜とアイヌを統制できているかを示そうとして創られたこの絵画は、反対に如何に江戸幕府が松前藩の蝦夷地統制能力に疑いの目を持っていたのか想像されたようである。北海道の名付け親である松浦武四郎が蝦夷地各地を江戸幕府の命令で探検する際に隠密的配慮をしていたこともあったようである。そのような緊張感がこの絵画たちの表情に少しだけ溢れてしまったことは自分だけの印象なのだろうか。
実際に「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」を見てみると、明らかな違和感を感じる。それは松前藩が蠣崎波響にフェイクで書かせたアイヌの肖像だから、それは清国の官服だけではなく、ロシアの軍服も重ね着している事である。「清国とロシアを相手にしているアイヌ民族を押し留めているのは我らが松前藩である。」と、徳川幕府へのアピールを目的としているとされていると聞く。清国の官服は樺太アイヌによる山丹貿易であるが、ロシアの軍服は自らがロシアとの戦いで得た戦利品なのか、それとも、ロシア難破によるものなのだろうか。
実際のアイヌの人たちがこのような姿をしていたとは思ってはいない。中には儀式用にとかいう文章も見るが、彼らの儀式はもっと民族的に崇高なもので他文化によってその威厳を保つものではない。また一部のアイヌの酋長は多くの財を成したことは事実ではあるが、ほとんどのアイヌの者たちは和人によって松前藩、或いは商人によって搾取され続けていたのである。彼らが高価な蟒袍(まんぱお)を保持している方が不思議に感じるのが自然だと思います。
一方、はるか遠く北の地での権力抗争など当時の徳川幕府にはどうでも良い事ではなかったのではないだろうか。ゆえにたびたび、松前の蝦夷地における権益を縮小して直轄の地としたり、それどころか蝦夷地より東北へ移した時期もある。 幕府の内部には帝政ロシアの南下政策を軽く見るがゆえに長州征伐や、戊辰戦争に明け暮れていたのではないのか。と思われる節も見える。いずれにしてもこれほどの蠣崎波響の中国南蘋派によるリアリズム美術は直視するほどに美しいことは否めない。
『夷酋列像』は粉本・模写を含めると6種が存在する。
① ブザンソン美術館:イコリカヤニを除く11人の肖像に松前廣長の序文2枚が附属する。来歴は不明。
② 函館市中央図書館:ションコ、イコトイの肖像。『御味方蝦夷之図』の名で伝えられる[3]。
③ 松浦史料博物館:12人すべての肖像。平戸藩主・松浦静山が松前道廣から原本を借りて、お抱えの画工に模写させたと伝えられる。
④ 常楽寺(浜松市):イニンカリ、ノチクサ、ポロヤ、イコリカヤニ、ニシコマチ、チキリアシカイの6人の肖像。住吉派の画家・渡邊廣輝が文化元年(1804年)に模写する。
⑤ 北尾家所蔵:12人すべての肖像。天保14年(1843年)に小島貞喜が模写する。
⑥ 粉本(函館市中央図書館所蔵)[4]:波響からその子である蠣崎波鶩に与えられたもの。シモチが欠けている代わりに、人名未詳の者3名の肖像が加わる。北海道指定有形文化財[5]。
山丹交易の終焉
蝦夷錦は、京都では高僧の袈裟に用いられるなど、極めて貴重で高価な品である。ここに目をつけたのが松前藩。樺太アイヌに強制してこれを手に入れようとした。アイヌは懸命にテンの捕獲に努めたが、テンは次第に減り、山丹人に負債を重ねることになる。山丹人は満州の威光を笠に横暴を極めており、その負債に過酷な条件を付けた。もし払えない場合はアイヌの子弟を人質として拉致すると脅かし、実際多くの子弟が連れ去られた。山丹人の持ってくる珍物(蝦夷錦)を得ようとする松前藩と、横暴を極める山丹人の間で、アイヌの人たちの負債はますます増加し、樺太は山丹人の属国のような有様だった。「この関係を整理しないで樺太をどうして統治することができよう」–松田伝十郎は自らこの問題の解決に当たることを決心する。松田は山丹人に「アイヌの借財は返済するから申し出よ」と告げ、返済額が判明すると、アイヌが支払うことのできない部分は官が支払い、アイヌを山丹人からの捕縛から解放した。山丹人との折衝は1810年(文化7年)から1812年まで続けられ、幕府(函館奉行)は、毛皮2500枚、131両を支払っている。これで決着がつき、それ以降山丹人とアイヌとの私的交易は全て禁止され、交易は役人立ち会いの上、樺太の南端シラヌシの会所でおこなわれることとなる。その支払いは幕府が蝦夷各地から集めた毛皮をもっておこなわれた。松田は山丹人の傲慢な態度を厳しく叱責し、くわえ煙草で部屋に入ってきたり、脱帽しなかったりという時は容赦ない対応で山丹人を震えあがらせた。松田の努力により、樺太における日本の支配権は確立されたのである。
松田伝十郎は間宮林蔵の上司であり、その協力者としても知られている。探検者であるとともに有能な官吏であり、また前述したように樺太アイヌの窮状を救った、高い人間性を備えた人物だ。