歴史のある街

さっぽろにやって来た和人とお雇い外国人 ①

開拓時の札幌の地って、こんな感じかな?

うっそうとしたサッポロの地に誰がいたの?

 早山清太郎は生涯一農夫を貫いた人物である。20後半から神仏を敬うようになって四国、九州、中国を巡礼し、京都にしばらく滞在する。1847(弘化4)年、郷里で米商いに失敗し、新潟で商家に勤めるが飽き足らず、蝦夷地を目指すようになる。妻と子供とともに蝦夷地に渡ったのは1851(嘉永5)年のこと。人夫として、松前城の改修工事に携わる。開拓三神を背負って札幌に来た開拓史判官・島義勇を案内し円山を検分、神社の敷地をこの地に決めた。島は「蓋し(けだし)、早山は傍近(近辺)の山川を熟知する者で、即ち我が北海の主人である」と、彼が地理に詳しいことを高く評価している。1871(明治4)年6月15日(この日が「さっぽろ祭り」と定められる)に「札幌神社」が太政官によって国幣小社に列せられた。同年9月には社殿も建設。同月14・15日に遷宮の祭典が挙行され、早山は猿田面(ひげを生やし天狗さんのような高い鼻をしたお面)をつけて御神体を先導した。以来毎年6月15日の祭典には彼が同じお面をつけて先駆し、それは老齢を理由に本人が辞するまで続けられたという。篠路神社の境内には、開拓の功労者と戦没者を合祀した平和顕彰碑が建立されており、功労者名の最初に荒井金助(箱館五稜郭で謎の死を遂げる?)と早山清太郎(のちの篠路村となる荒井村の祖となっています。)の名が刻まれています。

青木繁氏作 神産巣日命は助けるため2人の女性を遣わします。
蚶貝比売(キサガイヒメ)蛤貝比売(ウムギヒメ)
すると大穴牟遅の火傷が癒え生き返った。

これ、教科書で見たことありますよね。
少彦名の命『古事記』よれば、スクナビコナは、
天乃羅摩船(ガガイモの実とされる)に乗り、
鵝の皮の着物を着て波の彼方より来訪。
 一寸法師伝説に、或いはコロポックル伝説にとはさすがにここまでは、明治帝も……

 ここでワンポイントです。  日本の神話、記紀(古事記、日本書紀)に登場する「国造り」の主役大那牟遅神(大国主命の幼名) 助っ人に来た少彦名命 外国の神様 常世の国(とこよのくに) 大国魂神(北海道地場に存在する神様)この三神を以て、蝦夷地北海道での「国造り」の為、故事に習い開拓民を思い、帝政ロシアよりこの地を守る為、明治帝が札幌神社へ祀らせたのです。

 出雲の国に戻ったオオナムチ改めオオクニヌシは早速スサノオに言われた通り、大刀と弓矢を使って八十神をすべて退けました。そして、正式にスセリビメを妻に迎えたオオクニヌシは宇迦の山のふもとの岩の根に宮柱を立て、高天原に届く様な立派な新宮で国作りをはじめたのです。ある日オオクニヌシが海辺にいたところ、外国より「スクナヒコナ」という小さな神様(一寸法師伝説)が船に乗ってやってきました。このスクナヒコナはとても知識が豊かで賢く、国作りのパートナーとしてオオクニヌシを手助けしてくれたそう。だからこそ、お大八島に加えこの蝦夷が島を国造りの謂れを以て、日本国の地として天皇の権威を以て、国の内外に示す必要がったのだと思います。

 あらま! ひょっとして、最初のお雇い外国人は少彦名命さん?でも、お雇いではありません。ご無礼しました。日本の地、大八島(みなさん、正式名称を調べてみてね。)に無かった蝦夷が島を北海道と言う日本の地とする皇室のお仕事です。

淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま):淡路島
伊予之二名島(いよのふたなのしま):四国
隠伎之三子島(おきのみつごのしま):隠岐島
筑紫島(つくしのしま):九州
伊伎島(いきのしま):壱岐島
津島(つしま):対馬
佐度島(さどのしま):佐渡島
大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま):本州
吉備児島(きびのこじま):児島半島
小豆島(あづきじま):小豆島
大島(おほしま):周防大島(すおうおおしま)
女島(ひめじま):姫島
知訶島(ちかのしま):五島列島
両児島(ふたごのしま):男女群島

名付け親「北加伊道」 松浦武四郎

 北海道の名付け親として有名な松浦武四郎は地元三重県松坂ではそれほど知られた存在ではありませんでした。道内では、40カ所に松浦の銅像・レリーフが置かれており、道外ではサハリンや出身地である三重県松坂にも銅像が立ち、顕彰されているほど知らぬ者は北海道ではモグリである。徳川幕府の隠密と疑う松前藩の監視の目を逃れるため、ある時は漁夫に、ある時は臨時足軽や商人の手代になり、1845年から49年にかけて3度蝦夷地を探検している。手帳を懐に入れ、目に触れるもの耳にするもの全てを図や文にして書き留めた。1856年(安政3年)、松浦は39歳で第4回目の蝦夷地探検に臨んだ。松浦は蝦夷地探検に際しアイヌと常に行動を共にし、アイヌ語の研究も積み重ね自由に話せるようになっていた。 アイヌと共に調査する中で、各地で悲惨な話を多く耳にするようになる。ひどい虐待を受けながらも、尚、純真さを失わないアイヌの人々に感服し、アイヌ擁護・救済と松前役人・請負商人弾劾の書「近世蝦夷人物史」3篇を著している1858年、六回目の蝦夷地調査では「東西蝦夷山川地理取調図」を作製している。のちに開拓使の役人ともなるが、アイヌ政策で開拓使と衝突、退役する事になります。

 蝦夷地の地図は伊能忠敬や間宮林蔵などの測量で海岸線はほぼ正確になり、松浦の努力では内陸部の状況も詳細に図示されている。日本が帝政ロシアの南下に備えるためには、蝦夷地の概要の把握と、先住民とされたアイヌ民族の日本人化は欠かせないものとなって行くのでした。蝦夷地の近辺でロシアの警備隊と小さな衝突を繰り返していた、幕府や松前藩。間宮林蔵、近藤重蔵、村上島之丞、最上徳内などの探検者やゴローニンや高田屋嘉兵衛などの被害者も出ました。。この脅威を大きく捉えていれば、日本は戊辰戦争などやっている場合ではないことに早くに気がついていたかもしれません。

高田屋嘉兵衛 函館
大日本恵登呂府の碑
松浦武四郎
「北加伊道」と当初は命名、
「カイ」とはアイヌ語で「私たちの土地」の意味、彼等への思いを感じますね。
旧赤れんが庁舎にあった
「東西蝦夷山川地理取調図」
苫小牧、支笏湖付近の武四郎の記載
近藤重蔵

 択捉府島の丘の上に一本の柱を建てました。「大日本恵登呂府」と書き、その下に重蔵他3名の同行者、そして協力してくれた11名のアイヌ民族の名を書き連ねました。彼こそは日本人としてこの地を本当に守ることのできる人達であると信じたからであります。
これこそが、北方領土が
日本固有の領土としての証であります。

創成川公園にある大友亀太郎の像です。
明治の創成川

大友亀太郎と札幌村

 大友亀太郎は、開墾農場開設の業績が高く評価されて、1866年(慶応2年、当時32歳)、蝦夷地開墾掛を命ぜられ、石狩開墾に関する計画書を提出して、4 月23 日、高木長蔵ら数名とともに石狩に入りました。早山清太郎を案内役として御手作場(おてさくば・開拓農場)をサホロベツ(アイヌ語で大きな乾いた広い土地という意味)と決定して、伏古川のほとりで開拓に着手したのでした。(これが「札幌村」の原点となりました)。当時、大友亀太郎より先に、発寒には山岡精次郎、篠路には荒井金助、早山清太郎、豊平川両岸には志村鉄一、吉田茂八(豊平川の渡し守)らが入植していました。札幌における最初の定住者として、2人は「札幌開祖志村鉄一」、「札幌開祖吉田茂八」として、今の国道36号線が通る豊平川の両岸に碑が建てられています。

 田畑の開墾に先立って、資本を導入して、石狩などから多くの人夫を集めて、豊平川支流から水を引いて、北に水路を掘り進め、現在の南3 条から北6 条までは直線に(現在の創成川)、そこから東北に曲って北13 条東16 丁目のところで伏古川に合流するという用水路の大工事を、1866 年(慶応2年)5 月から始めて、同年9 月9 日に完成・通水させています。これが「大友堀」札幌本府の東西の基線となる現在の創成川となりました。

札幌で一番でかい島義勇像です。
北海道神宮敷地内

島 義勇

 初代開拓使長官の鍋島直正の直臣として、判官島の『石狩国本府指図』を見ると、本陣の前に幅十二間の大路が南に延び、その両側には役所や官舎が立ち並んでいます。その先には更に幅四十二間の大路があり、土塁が二列設けられ、その南に町屋が並んでいます。この大路後志通りこそが後の大通になるのです。今まではこれを南側の商業地ととの境との防火線であるという解釈は、現在には当時の銃砲の射程距離による防衛線ではないかという説が現れて来ています。明治2年の開拓使設置の年に最後の戊辰、箱館戦争がようやくと終結し、北海道入植者の多くは戊辰戦争により再起を誓う敗戦の東北列藩の開拓者が多かったのです。島義勇自身も後に佐賀の不満士族による、佐賀の乱に担ぎ出され河原に首を晒すことTなっていきます。もちろん、のちに復権されて正四位を授けられます。佐賀にあっては現在は顕彰記念碑が建立されています。

黒田清隆と榎本武揚

 旧幕臣榎本武揚と新政府軍黒田清隆にスポットをあて旧幕府と新政府軍の最終決戦。榎本武揚はなんとかなりのエリート。語学に優れ、なんと七ヶ国語も話せたとも言われています。さまざまな国をめぐり機械学から最新化学までありとあらゆることを学び、そして日本の未来に役立てようとした榎本。しかし、当時将軍の徳川慶喜が大政奉還。時は既に明治2年、旧幕府最後の砦、蝦夷共和国。フランス行使ブリュネのおかげで榎本率いる旧幕府軍は箱館に於いて、新政府軍との戦いに挑みます。しかし、すでに旧幕府軍の生き残った数はのこりわずか…そのとき榎本はある行動に出ます。それは榎本が肌身離さずもっていた海律全書です。前頁オランダ語で書かれた本をなんと新政府軍に送ったのです。「自分が死んでもこれからの日本のためにこれは必要だ」しかしこれをみた新政府軍は驚きます。「榎本さんこそこれからの時代に必要な人物。その命私がすくいもんそう」そして榎本は降伏を受け入れ江戸時代にピリオドがうたれたのです。さらに黒田清隆が第2代総理大臣の座に上り詰めたとき支えたのはいくつもの大臣を歴任した榎本でした。さらに明治32年には榎本の息子と黒田の娘が結婚。二人の交友は、ついに血縁関係にまで発展したのです。

 明治七年(一八七四)一月二十三日、榎本は特命全権公使として、ロシアの首都ペテルブルグへ旅だった。榎本の権威付けとして、海軍中将の肩書きがつけられた。当時、日本海軍の最高は大佐だったから、名誉職のようなものとはいえ、かつての敵将が新政府海軍の最高位についてしまったことになる。

  ロシアで榎本は、大国に臆することなく、対等の立場でねばり強く交渉し、いわゆる「千島・樺太交換条約」の締結に成功した。ロシア皇帝アレキサンダー二世も、この結果には満足し、後に榎本に「神聖スタニスラフ第一等勲章」を与えたほどだった。

榎本武揚を祀る小樽駅そばにある龍宮神社です。
隕石で作った刀剣も収められているとか。
小樽市民から「ブヨウさん」と親しまれている
榎本武揚は逓信大臣として【〒】を発案している

 明治2年新政府は開拓使を設置して、「北海道」と命名するが、同じ年箱館では、榎本武揚が幕府海軍の戊辰戦争の終焉を「蝦夷地共和国」として戦っていた。土方歳三をはじめ多くの戦死者を出し、黒田清隆率いる新政府軍に負け、終わりを遂げる。小栗上野介と同様に幕臣の中でも天才で5か国語を扱え、欧州留学経験のある榎本は黒田清隆の除名嘆願を受け、開拓使でのテクノクラートとしての手腕を発揮していきます。帝政ロシアとの千島樺太交換条約の締結を海軍中将として果たしました。足尾鉱毒事件の為議員生命を賭け政界を去っていきました。

榎本武揚の除名嘆願の為に頭を丸めた
黒田清隆
 「参ったなぁ~」と言ってるようですね。

 明治9(1876)年7月30日、祝津沖合航行中、黒田長官搭乗の開拓使宮船玄武丸の実弾射撃を行えるに、標的赤岩巌頭を外れ、祝津村民斎藤某漁舎を撃破し、同家娘多津与の両脚を重傷せしめ、遂に死に至らしめた事件があった。世に黒田長官大砲事件と称し、砲弾命中の家屋は現存している。 この船には長官のほか、アメリカから札幌農学校をつくるために招かれた、クラーク博士と学生たちもたくさんのっていたが、黒田長官と博士の間で、学生の道徳にキリスト教を用いる事を告げられ、いらだって大砲をうつことを命じた。とも言われています。のちにこの事件を金で解決しようとして、逆に斎藤氏より「ならば金を支払うなら、黒田の命を受け賜る。」と言われたらしい。当たり前ですよね。

旧赤れんが庁舎に展示の開拓使の模型です
ホーレス・ケプロン 
米国農務長官のプライドが故に多くの役人や、お雇い外国人とも衝突していきますが、北海道の総合的な開発の計画・構想は開拓使に対してのみ向けられ、顧問としての職分に徹していたようです。

 ケプロンは来日に際し、工学・地質・鉱学関係担当の技師として合衆国農務省に勤務していたトーマス・アンチセル(自生のホップを発見したと言われています。)、測量・土木関係担当の技師としてバルチモア・オハイオ鉄道に勤務していたワーフィールド、それに書記兼医師としてジョウジタウン医科大学解剖学助手・合衆国農務省図書館司書をしていたエルドリッジという優秀なスタッフを同行したのでした。
  ケプロン在任中のお雇い外国人の大半は、ケプロンの推薦・承認のもとに採用されたこともあり、多くのアメリカ人技術者が中心となったようです。地質・測量・鉱山のライマンや助手マンロー(1872・明5来日~)、農業・牧畜のボーマー(1871・明4来日~)やエドウィン・ダン(1873・明6来日~)などがよく知られています。

ホーレス・ケプロン

 明治4年(1871年)黒田清隆は渡米し、当時のグラント大統領と駐米公使森有礼とともに面談し、北海道の為に開拓の先輩国として協力を求める。陸軍士官学校出身で、戊辰戦争と同じく和戦である南北戦争を終えたばかりの両雄には共有する思いがあったのかもしれません。当時農務長官であったケプロンに適任者を選別するよう指示しているうちに、黒田はケプロンこそが適任者であると気づき、強く懇願します。長官職を辞し開拓使顧問としてお雇い外国人となります。

 ケプロンは黒田らとともに「北海道開拓10年計画」を策定。米国の大規模農業を大胆に取り入れ、札幌市内を流れる豊平川を使った農業用水の確保、農産物・家畜の品種改良、石炭鉱山の開発などのさまざまな開発事業を行った。産業基盤は着々と整っていった。生活面では北海道の冬の寒さを凌ぐためにいち早く農家の家屋にガラス窓を取り入れたのもケプロンのアイデアだったという。食に関して言えば、魚を保存するため缶詰にして輸出すること、東京、七重の官園、赤れんがの周りに国内国外の植物を植えて、何が適応するか、農業試験場状態だったそうです。北海道ではコメが育たないため麦を作ることを進言。特に麦の生産はサッポロビール誕生につながって行きます。

 1884 年(明治17 年)1 月、日本の天皇から勲二等旭日章が授与されました。ケプロンは、勲章と日本でのケプロンの功績を書き連ねた天皇署名入りの賞状に「深い感動」をおぼえたといわれます。

 そして、1 年後の1885 年(明治18 年)2 月21 日、ケプロンはワシントン記念塔完成を祝う式典に出席します。その日はよく晴れていたが、風の冷たい日であったそうです。帰宅後、気分の不調を訴えたケプロンは、その翌日、80 歳の生涯を閉じたのでした。彼自身は札幌に縁の深いマサチューセッツの出身でした。

中山久蔵
島松にある顕彰碑

中山 久蔵

 一方、日本人にとっては、いかに外国人顧問が北海道での米作を否定しようとも食は文化である限りは、理論ではなく、達成せねばならない目標となります。中山久蔵は嘉永6(1853)年に身を寄せた仙台藩が蝦夷地警備の任務を与えられたため、安政2(1855)年、藩士片倉英馬の従者として胆振国白老郡白老に(白老に仙台藩元陣屋資料館があります。)渡り、以後、白老・仙台を行き来した後、明治2(1869)年に北海道永住を決意。片倉家を辞して渡道します。

 明治4年(1871)、久蔵は44歳で島松沢にて開墾を始め、寒地では困難とされた米づくりにも挑戦。明治6年(1873)、大野村(現北斗市)から取り寄せた「赤毛」を用い(実際は月寒へ移動してからこの品種を導入しているらしい?)、川の水を温める水路(暖水路)や、風呂の湯を水田に注ぐなど、工夫と努力により米の栽培に成功し、10アール(約300坪)当たり345kgを収穫。希望者にはその技術と赤毛の種籾を無償提供した久蔵の功績は、米づくりを道央以北へと普及させました。やがて、北海道の米の取れ高は100万石(15万t)に成長したことから、島松沢は「寒地稲作発祥の地」と呼ばれます。

 明治のはじめ、屯田兵に対してお米を作ろうとする者には罰をくだすという命令がだされた。その時、私は長官に対して大胆にも、2キロの種もみを使って、百万石の収かくを見ないうちは死ねないと言って、笑われた。判官松本十郎にも大いに励まされ、1920(大正9)年に、北海道産米の生産量が百万石を突破した。

 明治14年(1881)の明治天皇北海道巡幸では、久蔵宅が行在所に指定され、久蔵は天皇と直に米づくりについて言葉を交わしました。近年、美味しくなった道産米のルーツは、中山久蔵が改良した赤毛種の種籾。今も近郊の「開拓の村で植えられていますよ。」正直申し上げますが、あまり、美味しいお米ではありません。

北海道畜産の父 エドウィン・ダン

 南北戦争は、米国経済に大きな打撃を与えた。ダンの農場経営も経済不況の中、土地や牛・羊を手放さねばならず、残ったのはわずか500ドルの現金のみ。そんな最中、ホーレス・ケプロンの息子A・B・ケプロンがダンの元を訪れた。ケプロンはダンに、牧畜に関する最新の技術と経験を北海道で生かしてもらいたいと要請する。期間は1年間。ダンは契約書にサインした。1873(明治6)年、22日間の航海を経て、ダンは80頭の牛とともに日本へやってきた。到着後、ダンは開拓使が東京で運営していた第三官園で起居。一緒に米国から渡ってきた家畜を、北海道に送る前に日本の風土に慣れさせ、牧畜のことなど何も知らない北海道移住予定者に、アメリカ式農法の実習を施した。開拓史は渡島国七重に官園をすでに開設。ダンは黒田長官の求めに応じて北海道を訪れ、官園を視察するとともに野生化している馬の改良に努めた。任務は、牧場にふさわしい場所の選定とその経営。彼は札幌近郊をくまなく調査し、真駒内(真古間内)をその場所に決める。当時の真駒内は深い原始林に覆われていたが、ダンは畜舎・家屋の設計、牧柵の設置、各種農機具の購入、種子の調達など、日本最新の「牧羊場」建設に取りかかる。米国から羊毛のメリー種200頭を取り寄せ、北海道の風土に十分適していることを確認している。

 新冠牧場では、道産馬の改良と輸入したサラブレッドの飼育を手掛け、競走馬の主産地となった今日の日高の基礎を築いている。1893(明治26)年には駐日米国全権公使に任命された。外交官としても手腕を発揮し、特に日清戦争終結のために努力したことが高く評価されている。1900(明治33)年には新潟県で石油会社(日本石油)を設立、札幌農学校一期生伊藤一隆を入社させている。1912(大正元)年には三菱に勤務するなど、日本経済の発展にも大いに貢献した。

札幌真駒内 
エドウィン・ダン記念公園

続く continuing to next

札幌真駒内 エドウィン・ダン記念館
記念館の内部

コメントを残す

*

CAPTCHA