永山武四郎は薩摩藩士であり、北海道における屯田兵制度の父と言われています。右にその上申書を連名で上げていますが、連筆している永山盛弘は同郷だが別人、次兄と共に西南の役で戦死しています。武四郎はそれを聞き憚らず悔しさを表したそうです。同じ西郷の部下でした。彼は北海道に心血を注ぎ、旭川にある永山は明治帝より名を残すよう推されたものです。死期の近づいた時、「遺体は北海道の地に帝政ロシアに向け葬るべし。」唯一自宅をこの地に建設。 同じく開拓使に残された盛弘の末弟繁盛はのちに日本帝国繊維の役員となり、札幌の地に生きました。武四郎はロシアとの衝突を見越し、札幌にロシア語研究所を設けた。生徒数は200人。日露戦争で第7師団は通訳を必要としなかった。