先ずは、計画的に行こう!
北大のキャンパスは広すぎるくらい広く、初めて行く方にはピクニックです。正門を入って、右手に案内板、左手に「エルムの森」ここでパンフレットや、地図を手に入れたり、軽い飲食、トイレも利用できるので、是非お寄り下さい。スタッフの皆さんも親切だし、お土産売り場もある。自分の時間に合わせて、コースを決めないとヘトヘトになってしまいますよ。
ホントは、行く前にネットでこの地図見つけて計画すると良いと思います。ポプラ並木までならただ歩くなら、30分でしょうか?コンビニや学生食堂も時間によっては自由に利用できるので、ゆとりをもって1時間30分ほどは楽しんでいただけると嬉しいです。
- エルムの森
- ジャンル:カフェ パスタ、ピザ カレー 定食、食堂
- 住所:北海道札幌市北区北八条西5丁目
- 電話:011-706-4680
- 最寄り駅:札幌駅[西通り北口]から徒歩約5分
- 営業時間:月~日 08:30~17:00
- 定休日:無休
- 住所:北海道札幌市中央区北1条西2丁目 旧札幌農学校演武場
- 電話:011-231-0838
- 最寄り駅:大通駅[31]から徒歩約2分
- 営業時間:8:45~17:10(入館は17:00まで)
- 定休日:年始(1/1~1/3)
Boys, Be Ambitious! 「青年よ、須らく志を大にせよ。」 伊藤一隆 訳
「少年よ、大志を抱け。」 大島正建 訳
就任披露演説において「本校の学生諸君は紳士である。紳士とは自分のことは自分で始末する謂である。自分で自分を制するものに規則は不要である」と、一切の規則の廃棄を宣言して吾々学生の心を掴んでしまった先生の申されることであるから、一同即座に署名したのです。
・翻訳家になった伊藤一隆の次女・恵子の回想27(若草物語訳)
「英語を習ったばかりの私が、アンビシヤスというのを野心家と覚え込んでいたので、
「クラーク先生は、なぜパパたちに野心家になれなんて、おっしゃったのかしら?」と疑
問を口に出した時、父は、
――クラーク博士は日ごろ学生たちに、人間の小さな野心や名誉心などに捕われず、私利
私慾をはなれて、何か人類に貢献するような高い目標、つまり「神の御栄(みさかえ)」をあら
わすような大きな志を抱けといっておられたので、あの時「ボーイズ・ビイ・アンビ
シヤス」といい残された短い言葉の裡に、私たちはそういう日ごろの教訓を更めて胸
に刻みつけられたのだ――
と説明しました。」 頸城野郷土資料室学術研究部 研究紀要 2018.3.1
伊藤一隆ーエドウィン・ダンが越後に連れて来た偉才より 瀧田 寧
開拓使仮学校で、明治6年に野球が行われたという記録が残っている。記したのは大島正健である。大島は明治6年頃は東京外国語学校(東京英語学校)で学んでおり、札幌農学校には第一期生として入学した。卒業後も同校で教鞭を執り、後に同志社の教授、甲府中学校や宮崎中学校の校長を歴任した。甲府中学校時代の教え子に石橋湛山がいる。
「米国帰りの牧野伸顕伯などが開成学校へ野球を持ち込んだのが明治7年の頃というが、開拓使仮学校生徒間に野球が行われたのは開校間もない明治6年のことであるから、この方が日本野球史の第一頁と申してもよいのではあるまいか。当時、何事にも器用で敏捷な伊藤一隆は同校で組織された野球チームの選手であった。本人が物語った当時の状況を次に書き記してみよう。(米国教師ベーツによる:ルールは今の野球とは少し違うようですが、私個人としては、米国人がそこに居留すれば、どこでもすぐに野球は披露されるだろうと想像できる。)
大島が何事にも器用で俊敏と紹介した伊藤一隆は、札幌農学校の第一期生として卒業。“Boys,
be ambitious!”を『靑年よ、須べからく志を大にせよ』と訳している。(伊藤一隆‐エドウィン・ダンが越後に連れてきた偉才 瀧田 寧より)実は開拓使仮学校時代からの在校生で、クラークが当時宿泊した部屋で、キリスト教の洗礼を受けている。卒業後は開拓使物産局に勤務する。以来ほぼ一貫して水産行政に携わる。魚の缶詰を作る技術指導のために来日したU.S.トリートから「鮭は人工孵化が可能で、アメリカでは実用化された技術だ」と教えられた。そして明治19年渡米し、メイン州バックスボードの孵化場で人工孵化技術を実地に学習した。そして明治21年、千歳川上流の烏柵舞(うさくまい)に日本最初の鮭鱒の人工孵化場「千歳鮭鱒孵化場」を設置した。インディアンが魚を捕獲する水車からヒントをえてインディアン水車と呼ばれている。
伊藤一隆は、キリスト者としても明治15年に無教会主義の札幌独立教会を設立し、明治20年からは全国初の禁酒運動を指導して北海道禁酒会会長を務め、さらにイギリス宣教師バチェラーとともにアイヌ人保護にも尽力、明治27年の退官後は帝国水産会社や北大協会初代会頭としての活躍のなか新潟での石油開発も行なっている。また娘の松本恵子(1891-1976)はアガサ・クリスティーなどの推理小説や「あしながおじさん」「若草物語」などの翻訳家としてよく知られている。「英語を習ったばかりの私が、アンビシヤスというのを野心家と覚え込んでいたので、「クラーク先生は、なぜパパたちに野心家になれなんて、おっしゃったのかしら?」と疑問を口に出した。父は、――クラーク博士は日ごろ学生たちに、人間の小さな野心や名誉心などに捕われず、私利私慾をはなれて、何か人類に貢献するような高い目標、つまり「神の御み栄さかえ」をあらわすような大きな志を抱けといっておられたので、あの時「ボーイズ・ビイ・アンビシヤス」といい残された短い言葉のに、私たちはそういう日ごろの教訓を更めて胸に刻みつけられたのだ――と説明しました。」タレント・中川翔子の高祖父にあたる。
旧 農学部校舎
北大営繕課の萩原惇正の設計と言われていましたが、総合博物館の設計図の印鑑では助手の岡田鴻記のものでした。この方は現在の札幌の岡田設計の創始者だそうです。萩原は他にも道立の図書館(現在の北菓楼本店)、現在の北海道知事公館、荻野目邸、北大の総合博物館などの設計をしていますが、写真など見つからず、関西出身で、系列的には鹿鳴館設計のジョサイアコンドルではないかと思います。
サクシュコトニ川
正門から、事務局、総合図書館、古川記念講堂、そして旧農学部に向かう途中に水辺を含む芝生のある空間が見え、学生や市民の憩いの場になっています。低湿地帯で建物を建てるには地盤に問題があった為に「中央ローン」として空地が残った。ここはかつてはアイヌ語メムと言われる湧水からの流れがサクシュコトニ川を形成しており、サケの遡上もあったようです。また当然ですが先住民の痕跡が多く残っており、北大型と言われる縄文土器が多く発掘される今も古代も文化のメッカであるのは凄い事だなと、ジィちゃんには思わず納得してしまう。だから今でもキャンパスで新たに建物が計画されると、先ずは発掘調査だそうで、文学部の考古学系の教室が嬉々として登場してくるらしいですよ。
北海道大学総合博物館
HOKKAIDO UNVI MUSEUM
総合博物館は旧理学部本館の建物であり、外壁が茶褐色のスクラッチタイルおよびテラコッタ張りのモダン・ゴシック風の建物で、昭和4年(1929年)11月に完成して北大に昭和新時代の到来を告げる新鮮な景観を呈した。北大構内にある鉄筋コンクリートの本格的建築としては最も古い建物であり、当初、理学部設置計画に基づき建設された。翌昭和5年(1930年)4月には念願の理学部が開学しました。
ここを見学するツワモノは半端な時間では廻り切れませんよ。お土産屋さんだけでも1時間は必要かもしれないほどのオリジナリティーがあります。3階までの展示コーナーは内容が濃縮され過ぎていて何度も訪れなくてはならなくなります。この博物館は子供たちに学問が如何に楽しいものであるのかを伝えるための展示をしています。建学の精神は札幌農学校のクラーク博士の精神が今も生きていて、無料で公開されています。いつかここを訪れ、楽しまれた子供たちが入学式に望まれることを願います。 1966年より構想・計画に始まり、1999年(平成11年) – 総合博物館を設置。本館及び札幌農学校第2農場(展示物)(北18条西8丁目)、函館キャンパスの水産科学館(函館市港町)の3施設により構成される。2つの方針 1)北海道大学の魅力を全部魅せます。・・・北大の強みとする部局の展示・12学部の展示・ミュージアムラボ展示の新設、産学連携展示の拡充など2)より市民に愛されるミュージアムへ・・・ユニバーサルなミュージアムを目指し、車椅子やベビーカー向け昇降機・ハンズオン展示室の新設、休憩スペースの整備、カフェの新設、市民と研究者が交流する知の交差点エリアの整備、入館料無料を維持など
屋根が美しい昆虫学教室
農学部昆虫教室国登録文化財指定。1901(明治34年)木造平屋建で、文部大臣官房札幌出張所の中條誠一郎設計。施行は庄司惣助。札幌農学校の校舎群が現キャンパスに移転したとき建てられた校舎の中で現存する最古のものだそうです。屋根の緑と、平屋のシンメトリーが美しい建物でこのキャンパスにはお似合いですね。
担当した松村松年教授は長年陳情の末、漸(ようや)く実現したのがこの不燃構造の標本室である。外壁は石造、床、天井は鉄筋コンクリートの混構造で窓も防火対策が施されている。以前は南側の教室棟と昆虫飼育室などでつながっていた。松村松年は、1895(明治28)の札幌農学校卒業と同時に昆虫学教室に留まり、1902年に教授となった、わが国昆虫学の基礎を築いた人物である。(この建物の説明板より)この建物は松村先生が長年希望していた建物でしたが、佐藤昌介学長とそりが合わず、お互いプライドが高かったせいもあり、佐藤学長が退官されるとき恩赦のように建設されることになりました。昆虫の標本は火災に弱いため、窓にはすべて防火シャッターが取り付けられているのが、外部からも見る事が出ます。現在は札幌農学校時代からの資料が収められているとのことで、いつまでもこの学校にとって貴重な資料を護っているのですね。(^^♪
現在、後方の昆虫標本室とも「北海道ワインのヌーヴェルヴァーグ研究室」が開設になった。
北大マルシェ
北大キャンパス内には中央食堂や、レストラン、そしてここ北大マルシェと一般市民や観光客に開放された飲食できる施設があります。特にここでは畜産関係の食事が楽しめるのかなと思います。ここでの生乳なども自家製なので大変おすすめです前庭も広くて、スウィーツも楽しめますので、友人、ご家族同士でお越しください。
「北大マルシェ Café & Labo」
札幌市北区北9条西5丁目北海道大学百年記念会館1階 連絡先 TEL・FAX:011-706-3213営業時間 4月~10月:10時~18時/11月~3月:10時~17時 *ランチタイム 11時~14時定休日 火曜日
セイコーマート
ここ最近出来た北海道ならではのコンビニです。それまでは学生生協がキャンパスをすべて支えていましたが、時代の流れはどこへでも押し寄せます。北海道地震の時、最も早く商品供給が出来た対応力は今でも市民が認めるところとなっています。お土産もありますよ。ここで一杯のアイスコーヒーを頂いています。のんびりとね(^^♪
ポプラ並木
北海道大学のポプラの発祥は、明治36年にアメリカから持ち帰った苗木がもとになっている、と書いた。持ち帰ったのは、森廣。札幌農学校校長・森源三の子である。彼は、アメリカに留学、アメリカ土産としてポプラの苗木を何十本も送った。農学校の農場責任者だった南鷹次郎教授が防風林を作ろうとそれを農場に植えたのが、北大ポプラ並木の発祥となっている。この森廣は、ポプラ並木の「父」であるだけではなく、さまざまなエピソードに彩られた人物だった。彼は植物学者・宮部金吾の仲人で佐々城信子(国木田独歩の元妻)と婚約するが、アメリカに留学した森を追ってアメリカ行きの船上の人となった彼女は、船の事務長と恋仲になり、森のもとを去る。このエピソードから森の同級生だった有島武郎は小説「或る女」を書く。また森は、内村鑑三、新渡戸稲造ら札幌バンドと呼ばれるクリスチャンの流れ
このポプラ並木は、昭和34(1959)年に最大の危機が訪れた。大型で発達した台風14号によって10本近くが倒れてしまったのだ。その危機から並木を救うきっかけとなったのは、なんと桑園小学校5年生の女の子が町村金五北海道知事(当時)に送った1通の手紙だった。その手紙には、「私たちのポプラがかわいそう。植え直してあげてください」と書かれていた。手紙を受け取った知事は、早速ポプラ並木の植樹を提案。その結果、それ以前より長い全長約300メートルの並木が出来上がった。
このポプラ並木は、昭和34(1959)年に最大の危機が訪れた。大型で発達した台風14号によって10本近くが倒れてしまったのだ。その危機から並木を救うきっかけとなったのは、なんと桑園小学校5年生の女の子が町村金五北海道知事(当時)に送った1通の手紙だった。その手紙には、「私たちのポプラがかわいそう。植え直してあげてください」と書かれていた。彼女の年齢だと今も現存しているかもしれませんね。手紙を受け取った知事は、早速ポプラ並木の植樹を提案。その結果、それ以前より長い全長約300メートルの並木が出来上がった。平成12(2000)年10月、「平成ポプラ並木」の記念植樹を学生や地域住民ら約500人と一緒に行った。新しく植樹されたポプラは、現在のポプラ並木から枝を採取して挿し木によって育成した2世ともいえるもの。知事は札幌農学校卒、畜産の父である町村金弥の子供です。
札幌農学校の卒業生
科学者:加藤セチ博士
明治26年1893年- 平成元年1989年 山形県東田川郡押切村北海道帝国大学初の女子学生京都帝国大学より理学博士号を授与理化学研究所(理研)に主任研究員制度が発足したのは1922年である。主任研究員が裁量権を持って研究室を主宰する制度、研究者は研究テーマに専念できた。研究者が集まれば、権威・年齢・分野にこだわらない自由で徹底的な議論が活発に行われ、その中から新たなアイデアの芽が生まれた。ノーベル物理学賞受賞の朝永振一郎は、このような研究環境を「科学者の自由な楽園」と表現した。その楽園で女性初の主任研究員になったのである。
「美人すぎるから大成はのぞめないと思うが、初めてのことでもあり、ためしに」。北星女学校で数学、物理、化学、体育を教えていた加藤セチが、北海道帝国大学農科大学への入学を希望した際、 東京帝国大学では、女性の入学を一切拒否していた。東北帝国大学理科大学が、3人の女性の入学を認めたのが1913(大正2)年、日本初のことだ。
その5年後、北海道帝国大学農科大学として独立、佐藤昌介が初代総長に就任。同年4月から北星に勤めていたセチは、夏休みに遊びに来た東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の後輩たちを北大見学に連れて行った。その際、佐藤総長が「北大は女子に門戸を閉ざしていない」と語ったことに感激し、セチは「もっと深く学びたい」と、すぐに入学を願い出た。佐藤昌介総長は、さっそく教授7人、女性の入学を検討させた。教授会は「学力が足りない」という理由で入学を反対した。入学を認めても、男子の学力についていけないだろうと危惧したのだ。検討会は2回開かれたが結果は同じ。セチは憤慨し、「学力が足りないのは、私のせいではない。教育制度が悪いからだ。女性にも大学の門戸を開くべき」と強く抗議した。その熱意に大学側は根負けし、1918(大正7)年9月、正規学生と同様に講義と研究指導を受けられる「全科選科生」として入学を認めた。
1936(昭和11)年、理学博士として活躍するセチ
大戦下の1944~1945年には、薮田貞次郎、坂口謹一郎、住木諭介らとともに、肺炎などの感染症治療薬として発見された抗生物質「ペニシリン」の研究に携わった。また、1935~1945年にかけて(財)日本学術振興会などから航空燃料の研究を委嘱されている。
戦後は、山本喜代子と外村シヅとともに光合成の解明や、結核の治療薬に用いられた抗生物質「ストレプトマイシン」の研究に力を注いだ。そして1953年、吸収スペクトルによる化学分析を切り拓いた研究が認められ、女性初の主任研究員となった。
家庭人として野菜を買うときも必ず産地を確認し、その特徴を生かした使い方を見極める。「台所の片隅にも、エプロンに包まれた野菜にも科学はある」と考えたのが、加藤セチという研究者だった。
加藤セチからのメッセージ
「天才でも何でもない凡人には、どうせ、あるものしか見えないとあきらめるのは間違いである。どんな芸術でも、どんな科学でも生まれるときは、全くの偶然に霊感が現れるという場合はなく、心を不断に配り、観察を微に入り細に亘って怠らないとき、そこに霊感が降りて、発見が生まれる」
桂田芳枝教授
(1911-1980)
北海道余市郡に生まれました.父は余市郡余市町の小学校の校長であり、「子供は大きな夢を持ってのびのびと育つべき」という、当時としては先進的な考えの持ち主だった。彼女が小樽高等女学校に入学したのは,女子学生の数学の授業が男子学生の半分しかないという時代の話です.本格的に数学を勉強したいという情熱で卒業して2年後,東京物理学校へ向かいます.女子には聴講生になる道しか開かれておらず,質問も許されないという環境でした.
芳枝が熱心に講義を聞く姿は、東京物理学校で講師を務めていた森本清吾の目にとまった。芳枝は森本との出逢いにより、森本の自宅で週に1回、個人授業を受ける機会を得た。森本の妻である森本治枝も、女学校などで数学を教えており、芳枝がこの後に数学の分野で活躍したことは、森本夫妻の支援が背景にあった。
1940 年に北海道帝国大学に入学します.戦争は希望を持った若者たちにも暗い影を落とし,1942 年 9月に卒業という形をとらざるを得なくなります.大学で数学を勉強したいという希望に対して時代が彼女にどんなに苦労を強いたか,現在の我々が彼女の生い立ちをみると胸が熱くなることでしょう.卒業後,すぐに北海道大学理学部数学科助手に採用され,1950 年には,「高次空間の非ホロノム系について」の研究で,数学における日本女性初の理学博士となりました.
閉店した素敵な櫻月(サクラムーン)、札幌円山地区の閑静な住宅街に在るレストランである。この建物は、北大初の女性教授で数学者、桂田芳枝氏が1954(昭和29)年に自宅として建てた家であること。家には、芳枝さんと姉の静枝さんが暮らしていたが、独身であった二人が亡くなった後、1988(昭和63)年にイラストレーターの鯨森惣七氏がレストランとして開業、後に、二代目にオーナーに引き継がれたこと。建物の特徴的な部分である正面の曲面は、レストラン開業後、庭の眺めを楽しんでもらうため増築されたらしい。
1967 年には河口商次の後任として,旧北海道帝国大学における初の女性教授となり,新聞等にも取り上げられました 。また,熱心に教育に取り組み,多くの学生を育てています.1969 年には「大域の微分幾何学特講」と題する講義をしましたが,出席者により丁寧に取られたノートが残っています 。「昭和 17 年以来,幾何学の研究に精進し,その業績は国際的にも高く評価されている.北海道大学において 30 年間にわたり子弟の教育にあたり,本道の各大学や高等学校へ数多くの教育者を送り出している」という理由で,1973 年北海道文化賞を受賞しています.1980 年 5 月 10 日桂田芳枝は 69 歳で亡くなりました.
「努力・忍耐・独自の工夫創意なくして開拓はなし得ない」と彼女は書いています.
末松 信三 1885-1971 愛媛県西予市
東北帝国大学農科大学卒業 東北大学農科大学予科教授
「私が札幌農学校に入学したのは明治37年9月であった。札幌に着いて、早速学校を訪ねたが、学校は北2条の旧校舎から、北8条の新校舎に移っていた。当時北6条以北は町とは言へ一面に牧草が茂り、それに交じってタンポポが咲き乱れ、実に美観を呈していた。その上をそこいらに放牧された牛がのそのそと歩いている有様など、郷里の段々畑式の光景とは、およそかけ離れたもであった。」(札幌同窓会誌 復刊号)
のちに同志社大学にて、湯浅八郎元総長(同志社大学)にょる末光信三先生はすでに若き日に「及ばずながら小新島・小クラークとなって神と人とに泰仕せんと決心したのである。それが私のために神が備え給うた使命の道だと信じた」と告白しておられたという。私に「新島襄の権化」と映じたのも当然であったわけである。
と、
悪友夏目漱石の袴 北大生の学生群像より
橋本 左五郎
1866年(慶応2年)-1952年(昭和27年)
備前国(現岡山県)生まれ
札幌農学校8期生 東北帝国大学農科大学教授 北海道大学付属農場長、北海道庁畜産課長、札幌第一中学PTA会長
東京大学の予備門時代、代数の苦手な夏目漱石は左五郎の手助けで、大学に合格。本人は落第にて、札幌農学校へと決まるが、展示にはこのように記載されている。「明治18年8月、札幌へ来る時は、私の袴が、あまりにボロボロだったので、夏目漱石がこれを穿いて行けと言って袴をくれました。これを穿いて、行李を背負って、刀を一本差して、こちらへやってきました。」(漱石全集月報 第11号) 緋村 抜刀斎みたいですね。
西南戦争の一因ともなった廃刀令は、 明治9年太政官布告第38号である「大礼服並軍人警察官吏等制服着用の外帯刀禁止の件」これを見るに、当時の北海道には、まだ、貫属的な帯刀が認められていたのだろうか? 現在のように、民間人の武器所有を禁ずる、銃刀法は1954年GHQの指摘により、現生の刀狩は完遂することとなりました。
旭川の東鷹栖にあった松平牧場は旧出雲松江藩松平直亮の所有であり、その創業は1895年(明治28年)より、農地解放する1937年(昭和12年)までだが唯一成功した華族農園であった。この、農場の成功は、札幌農学校の卒業生第1期内田瀞(写真左)と松江藩再興を願う藩士子息で第11期生小川次郎の畜産から水耕栽培への転嫁がその英断により齎されたのである。小川次郎は佐藤昌介の紹介で、当時、東京興農園であった1期生渡瀬虎次郎に出会い、札幌興農園を起こした人物であります。
NHK大河『どうする家康』で家康のお手付きとなり、正室築山より追放される於古茶(お万の方)が忘れ形見、結城秀康の子河内丸は1614年(慶長19年)大阪城冬の陣より参戦する。のちに家康に異母兄松平忠直に配慮で謁見し、冷遇される(当時忌み嫌われる双子であり、片割れは浸食となったらしく思われる。)が、のちに築山没後正式に松平直政を名乗り後の出雲の国松江18万6千石松平家となります。
左写真中央は内田瀞と同じ「土佐ボーイ」の一人で、クラークの背に乗り植物採取したのちの静内御料牧場初代場長黒岩四方の進である。
東京大学 寺田虎彦先生
随筆家としての継承者
東京大学 原子物理学者
北大 雪氷学創始者
中谷宇吉郎先生
1896(明治29)年4月、夏目漱石が、熊本第五高等学校に英語教師として赴任した時、のちの物理学者・寺田寅彦は五高の生徒でした。漱石の自宅は「漱石山房」と呼ばれ、漱石を慕う門下生や友人が集う文学サロンだった。この漱石山房から羽ばたいた多くの門下生の中でも異色の存在、物理学者の寺田寅彦。
中谷宇吉郎は、1900(明治33)年7月4日、現在は石川県加賀市に編入されている温泉町・片山津に生まれている。弟は後に考古学者となる治宇二郎である。
東京帝大理学部物理学科に進む。そこで出会ったのが物理学者・作家として高い名声を得ていた寺田寅彦だった。
寺田の門下生となった中谷は、大学卒業後も理化学研究所の寺田研究室に研究生として残る。寺田との出会いが、物理学者・中谷宇吉郎の全ての出発点となったと言っても過言ではない。科学者としての姿勢、飽くなき好奇心、生き方、その多くを中谷は寺田寅彦から受け継いだ。
北大赴任の際、専門の原子物理学の設備がないことに失望せず、その手に落ちる雪の結晶を見つめ、寺田先生の「君、不思議だと思いませんか?」の言葉を思い出す。
中谷は後に「寺田先生の追憶」をはじめ、寺田寅彦について多くの回想を残している。
東京大学卒 夏目漱石氏
夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日〈慶応3年1月5日〉 – 1916年〈大正5年〉12月9日)は、小説家、英文学者。帝国大学哲学科正岡子規と出会い、俳句を学んだ。帝国大学(現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学。帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』
北海道大学 第二農場 SAC Model Dairy Farm
北海道型畜産の始まりの場所
北海道の農業は手探りの農業でした。ホーレス・ケプロンやエドウィン・ダンが米国からいろいろな種子や農業器具、技術をお持ち込み当時、何が一番の適地であるかを探る農業試験場の様な大官園を赤れんが周辺や、真駒内、そして、この札幌農学校の大農場にも展開しており、クラーク初代教頭はモデルバーン、模範畜舎の建設を即座に実施した。ものモデルバーンは当時の米国の牧場における畜舎をモデルにしており、道内各地に建てられるようになった。これは北海道独自の形式であると言えます。畜産だけではなく、はたさくでも札幌農学校で教鞭を振るったウィリアム・ブルックス先生は故郷のマサチューセッツより、イエローダーンバース種の玉ねぎを取り寄せ、丘珠村で栽培を進め、これが現在にて有名になった「札幌黄」という玉ねぎの王様になったのでした。ブルックス先生の活躍はそれだけではなく、米国開拓の歴史より、第一農場における畑作農業に於いても土の飽和水分を適地を守るため、日本農業における灌漑農業ではなく、排水農業を推進し、そのための素焼き土管の開発にも貢献していました。
https://sapporowalk.info/model-dairy-farm/