「 竹 鶴 / ー ト 」 に は 、 ウ イ ス キ ー 製 造 に 関 す る こ と の み な ら ず 、 社 員 の 待 遇 や 働 き 方 、 労 働 環 境 につ い て も 書 か れ て い ま す 。 効 率 を は か り 退 出 時 間 が 来 た ら 遠 慮 な く 家 に 帰 り 家 族 と と も に 楽 し い タ ベ を 過 ご す こ と は 、 凡 そ 人 と し て 踏 む べ き 道 で あ る と 言っています。 大 正 中 期 に あ っ て 、こ の よ う な 意 見 を 誰 は ば か る こ と な く 書 く こ と の で き た 日 本 人 は 多 く は な か っ た で し よ う 。もちろん彼が海外で留学の為滞在した経験が与えられた思慮が働いているのだと思いますが、竹 鶴政孝 は 機 会 あ る ご と に 家 庭 を 大 事 に す る こ と を 奨 励 していたそうです。それがのちに、従業員がスコットランドの街を訪れ姉妹都市提携への足掛かりとなっていきます。
ま た 、 ニ ッ カ ウ ヰ ス キ ー で は 、 竹 鶴 を は じ め社 員 一 同 挙 げ て 、 家 族 も 交 え て の レ ク リ エ ー シ ョ ン や ス ポ ー ッ ク ラ ブ 活 動 が 盛 ん に 行 わ れ ま し た 。そ し て 、 よ く 働 き 、 よ く 遊 ぶ と い う の が ニ ッ カ の 社 風 の ひ と っ と な っ た の で す 。
この街では、一日をご家族友人同士で楽しむことが出来ますね。北海道のあちこちの街を見てきましたが、海産物やリンゴなどの果樹園なども充実しているので、いろいろ調べて行かれるとステキな一日の思い出が出来ますよ。特にニッカウヰスキー余市蒸留所は充実した見学システムが施されています。お子様の入場が難しいようですが、私は特には問題ないように感じました。リタとマッサンのドラマはテレビ化されたほどに子供達にも夢のあるお話なので、その展示と共に良いのではないでしょうか?地元の学校の見学がどのように取り扱っているのか気になるところでもあります。余市宇宙記念館‐スペース童夢、旧下ヨイチ運上家、よいち水産博物館、北海ソーラン祭りなど、今回紹介できないところも多々あるほどに、現地の美味しい処、お土産なども今後掲載を検討しているところです。
初春の頃、桜咲く前に国道5号線沿いに真っ白なリンゴの花が咲き誇ります。戊辰に負けた会津からの入植者の多かったこの地に青森でも名産のリンゴの産地となりました。斗南藩は、会津が領地替えされた米作のできない青森の一部でした。
消えゆくJR余市駅
かつての函館本線もまだしっかりと時期が決まったわけでは無いのですが、決定事項としていずれは、札幌駅から小樽駅までとなり、余市、仁木、倶知安へは高速バスにお世話になる時代が来るようです。小樽からの単線の軌道を見つめていると、先人達の心血を注いだ汗の臭いがするようだ。あっ、それは自分の知らない受けつけぬ香りなのだと思う。高速バスは昔の路線バスとは違い、かなり乗り心地も良くなりましたが、大量輸送を考えた時、安全保障などの備えに問題がないのか国は大いに考慮すべきと思うのは老婆心なのか。
現在りんごの主産地である青森では「明治8年、内務省勧業寮から3本の苗木配布。県庁構内に植える。これが青森りんごの始めだというのが定説」とされています。また生産高第2位を誇る長野では「明治7年アメリカのりんごの苗木が勧業寮から長野県下に交付されたのが信州りんごの始まり」と言い伝えられています。
いずれもルイス・ベーマーによる接ぎ木法が基になっています。
ところで、明治5年、ベーマーが指導する東京青山の官園に、余市から中田常太郎という元会津藩士が「農業成育方」として派遣されています。
余市とベーマーの初めての交わりといえるでしょう。
ベーマーは、明治7年、植物の生育分布調査で半年ほど北海道を廻る中で、7月26日に10名余の従者と伴に回路古平を経て余市の地を踏んでいます。
ベーマーは5月に東京から函館に上陸後一時体調を崩した為回復を待って7月4日に本来の目的である北海道植物調査の旅を始めますが、その途中での余市寄港でした。一行は余市に一泊し翌日陸路札幌に向けて旅立っていますが、残念ながら余市には記録が残されていません。明治3年12月、北海道開拓使によって「余市移住七百余名帰農手続概略」が作成され、ひとまず余市行きが決定されました。会津藩士らは「帰農人」とよばれ、移住初年には、米1,890石(1人一日あたり玄米7合5勺)、金1万4,000両(5軒長屋の家を建築する。その数140戸)、金4,200両(塩菜料)、金3,000両(農具料、種子代)、金7,700両(家具代価)が予定されました。翌4年正月、会津藩士団から開拓使小樽仮役所の開拓使監事大山壮太郎へ、開拓の決意を込めた「御受書」が提出されます。そこには「朝敵」の汚名をそそぐ固い決意が表され、「天恩に報いて規則に従い、仕事に励み、もしも怠ればきつく戒めていただきたい」という意味の言葉が記され、宗川熊四郎茂友以下227名の名がそこにありました。御受書は昭和63年11月、余市町の指定文化財に指定されます。
前半部分が欠落していますが、「明治維新を経て士気はだんだんと衰えると思われる。旧会津藩諸士の籍はこの地(余市)に移った時から誤って平民に編入されてしまい、すでに20余年が経過した。先祖が武士であったことを後に続く子孫が忘れてしまうことを恐れる。この年の5月上旬に現在の籍の訂正を道庁に出願したところ、この9月8日に公明なる係官より裁可を得ることが出来たので、「本月本日」をもってその発表式典を挙行することとする。以後はますます士気を養成し、北門(北海道)を守る意気は盛んであり、本日の席において祖先の家名を失墜させないようにすることを述べる。」といったことが書かれています。
会津団体は御受書に誓ったとおり開拓に励み、リンゴをはじめとする余市町の果樹栽培の礎を築きました。 余市HPより転載
戊辰戦争で敗れた旧会津藩士が、余市に移住したのは明治4年です。その旧会津藩士が、明治12(1879)年、ここ余市町で民間初のりんごの実を結実させました。
初めて結実したりんごに「国光(こっこう)49号」と「緋の衣(ひのころも)19号」という名前がつけられました。「緋の衣」りんごの色は、幕末に会津藩が京都守護職にあった際に孝明天皇から下賜された「緋の御衣」と同じだったのです。隊長だった宗川茂友氏がこう言います「われらは皆、りんご侍だな。刀を捨てて戦も忘れていても、りんごの栽培では我らの勝ちだ。」りんごの実の結実によって旧会津藩士は、朝敵・逆賊の汚名を返上し「りんご侍」と呼ばれるようになりました。りんご侍の努力が、余市をりんごの名産地として作ったわけです。
そして、平成17年に「会津平成りんご研究会」によって50本以上に増え、ついに収穫されました。会津に戻ることが出来なかった旧会津藩士の士魂は、りんごの結実によって、百年以上の時を越えて故郷に帰りついたのです。 との記載が残っています。
(森山祐吾著「りんご侍と呼ばれた開拓者」より抜粋)
江戸時代のはじめ、寛文9(1669)年のシャクシャインの戦いの頃、津軽藩により蝦夷地各地の様子が記録された『津軽一統志』にある「松前より〔上〕蝦夷地迄所付」では、「ふるひら」と「もいれ」のあいだに「與市 川有 澗あり (中略) 家四十軒 古城あり」と記されています。與市(よいち)は川があって船が停泊できる「澗」がある場所、また「古城」とは東中学校付近にあった天内山遺跡のことだと思われます。
昭和51年5月21日、北海道指定の有形文化財「天内山遺跡出土の遺物」に指定されて保存されています。土器や貝塚が見つかっています。
余市は15世紀のコシャマインの戦いや、17世紀のシャクシャインの戦いといった日本史上に残る大事件に登場しますが、その舞台の中心は天内山を含む余市川河口一帯であったことはほぼ確実で、歴史上重要な河口でした。
ニッカウヰスキー余市蒸留所
Nikka Whisky Yoichi distillery
日本人で初めてモルトウイスキーの製造技術を学び、「万年筆とノートで英国の財産を持ち出した男」といわれた。
ウイスキーだけではなく、英国人の花嫁も連れて帰国後、鳥井信治郎と共に「寿屋(現・サントリー)」の基礎を築いた。その後、英国留学時代から世話になっていた柳沢保恵伯爵、芝川又四郎、加賀正太郎の協力により、独立し北海道余市で昭和9年、ウヰスキーの蒸留が終わるには時間がかかるため、最初はリンゴジュースを販売ていたので、名前が「大日本果汁」(現・ニッカウヰスキー)を設立した。
後にニッカの大株主となる朝日麦酒の山本為三郎は人材と資金の両面から後援、事業を強固なものにしてくれた。18年社長、45年会長。“日本のウイスキーの父”といわれる。余談であるが、47年札幌冬季五輪70メートル級ジャンプで、金メダルを獲得した笠谷幸生はニッカ社員であった。
竹鶴は余市にスキーのジャンプ台を造り、「竹鶴シャンツェ」と呼ばれるこのジャンプ台で笠谷は育ち、後に、長野オリンピックで金メダルを獲得する船木和喜や斎藤浩哉も、ここでジャンプを覚えた。
ニッカウヰスキー北海道工場余市蒸溜所ご案内係
TEL:0135-23-3131 FAX:0135-23-2202
お電話・FAX 受付け時間 /9:00〜17:00 休業日(12月25日〜1月7日)を除く毎日
見学費: | 無料 |
休業日: | 12月25日(水)~12月31日(火)、 1月1日(水)~1月7日(火) |
所在地: | 〒046-0003 北海道余市郡余市町黒川町7-6 |
リタとマッサン
ジェシー・ロベルタ・カウン(愛称:リタ)は1896年、グラスゴーに程近いカーカンテロフ(緯度的には北海道道央部に近い)に生まれた。リタの生涯を詳細につづったオリーブ・チェックランドの『リタとウイスキー―日本のスコッチと国際結婚』によれば、リタは医師の父・サミュエル・カウンと母親 、3人のきょうだいとともに、町で最も立派な建物の一つと言われる屋敷で暮らした。幸せな少女時代だったようだ。家族の反対を押し切り、極東の日本へ。
地方議員だったボビー・コイルが町役場の外にいる日本人観光客のグループに目を留めたことだった。町を訪れる日本人はそれほど多くなかったため、興味半分で訪問理由を聞いてみると、彼らはニッカウヰスキーの従業員だった。当時町役場として使われていた旧カウン邸の見学に訪れていたのだ。このエピソードは、1987年3月4日付の地元紙に、「なぜ日本人はカーキーを訪れたがるのか―東洋の島国を感動させた少女」との見出しで大きく報じられた。
以来、今日に至るまで、カーカンテロフと余市町の交流が続いている。1988年にはストラスケルビン市(カーカンテロフが属する市で、現在はイースト・ダンバートンシャー市)と余市町の間で、日英間で初となる姉妹都市の提携が結ばれた。
いずれにせよカーカンテロフの人々が、東洋の島国との意外な接点に関心を抱いていることは間違いない。「興味深い話ですからね。ただし悔しさ半分であることは否めません」。なぜならリタの物語は、スコッチウイスキーの製法流出につながる歴史でもあるからだ。「そうはいっても、リタが産業スパイを働いたわけじゃない。これは愛の物語です。彼女は本格ウイスキーの製造に挑む夫を生涯支え続けたのです」リタ、よくぞマッサンも支えてくれたね。
■フゴッペ洞窟
【住所】北海道余市郡余市町栄町87番地
【開館時間】9時~16時30分
【問い合わせ(電話番号)】0135-22-6170
【駐車場】有
【入館料】大人300円、小中学生100円
【休館日】毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は営業)、祝祭日の翌日、冬期閉館(12月中旬から4月上旬)
フゴッペ洞窟
以前から何度もここを見たくて見つけられず、初めて路線バスだと簡単に見つけられました。車で来ると車速について行けないのかな?昭和25年(1950年)、考古学好きの少年がたまたま手宮洞窟と同様の岩肌に刻まれた文様を発見。その後、日本海をはさんでロシア沿海州のアムール川周辺に同様の岩壁画が数多く発見されるに及んで、それらが「古代文字」ではなく「古代彫刻・文様」であるという学説に落ち着くようになったらしい。フゴッペ洞窟には人、舟、魚、海獣、4本足の動物のようなものなど200を超す刻画があり、岩壁に刻画を残すこのような洞窟遺跡は世界的にも大変貴重なもの。フゴッペ洞窟と並んで日本国内で続縄文時代の壁面彫刻を見られるのは、小樽の手宮洞窟。どちらもカプセル方式の施設で保護、展示されているため、パッと見では中にこのような歴史的洞窟があるとは感じられません。存在を確認しつつも素通りするケースもあるでしょう。しかし、フゴッペ洞窟と手宮洞窟はパワースポットとの話も。一度立ち寄って、これが意味するものと共に感じてみてみてください。