大事な学び

札幌農学校 第二農場 Sapporo Agricultural College Model Dairy farm

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学生の農業教育の研究を対象とした「第1農場」が現在の北海道大学南門周辺に、そして畜産の経営を実践する農場としての役割を担った「第2農場」が現在の大型計算機センターと環境研が位置する場所一帯に建設された。

農場内展示パネルより
全道各地に広がる北海道大学の農場群、道内に第8農場まであったようで、
札幌市内でも現在の南区(札幌の半分以上の面積を占めている。)、
北区南区に第三第四農場があります。
現在は大学が市街地を分断しているように見えますが、
歴史的には農場が市街化して行ったという事なのですね。
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クラーク博士
北海道大学所蔵
エドウィンダン
北海道大学所蔵
ブルックス先生
北海道大学所蔵

キャンパスの北の端に

 北海道の畜産に札幌農学校がもたらした影響は余りにも大きいのではないだろうか。もちろん、明治4年に米国より招聘されたホーレス・ケプロンの息子から依頼を受け1873(明治6)年登場した24歳エドウィン・ダンの功績が素晴らしい事は誰もが認めるところではあります。七重牧場、真駒内種牛場、新冠種馬場、札幌牧羊場などを開設してその経営にあたり、家畜の飼育、牧草、甜菜、亜麻などの栽培、土地の改良、畜力農具の使用、畜産物の加工などあらゆる新技術を実地に伝えた。北海道は実にその基礎の上に栄えたのである。明治十五年任期満了後も日本に留まり、昭和六年八十四才で長逝されるまで、我国の外交、産業、文化の発展の為に全生涯を捧げられた。当初は1年だけの契約がこの国で一生を送る事に、人の運命とは、という思いです。

クラークは着任早々、開拓使長官・黒田清隆宛に次のような手紙を出している。当然ではあるが、快諾の返事を受けている。

「設備の良い農場を設け、これを外国人の農学担当の完全な管理のもとに置くことを提案いたします。(中略)この農場は札幌農学校の学生に、実質的農業、特に正しい農場経営法の適切な実地訓練を施すためのものであり、この際、労力節減、有利な作物と家畜の生産、土壌の生産力維持に十分注意を払わせるものです。…最も合理的で確実な経済的農場経営を確立するため、費用に見合う作物と家畜のみを育成し、手動器具や人手はできるだけ農業機械と牛馬の働きに代えるようにするのです」(ジョン・エム・マキ著、高久真一訳 『W・Sクラーク その栄光と挫折』より)

 1876年9月下旬、クラークはマサチューセッツ農科大学で自ら設計した畜舎を手本に、W・ホイラーに模範家畜房:モデルバーン(耕馬、産室、雄牛追込所)の基本設計を描かせた。

chat gptのひとつであるmicrsoft edge bingに聞いてみると新島襄とノースロップの関係がわかりました。非常に勉強になるので、これからも活用しますが、かなり、真実とは程遠い回答もありますので、100%信頼しているわけではありませんよw。

 旧札幌農学校教頭のウィリアム・S・クラークは農業教育上実践の重要性を当時の開拓使の札幌官園にの一部に見出し、その一部を農校園として開設しました。

 1890年(明治23年)政府の方針転換により学校資産を札幌同窓会に払い下げられましたが、1895年(明治28年)大学が文部省の管轄になり、同窓会は資産を寄付する事となりました。

 1907年(明治40年)東北帝国大学農科大学へ昇格に伴い、施設の老朽化もあり、1909年(明治42年)より、改築、新築1912年(大正元年)完成し、現在の配置にかなり近い状況になりました。 

 更に昭和43年に実際の牛舎が現獣医医学部の北側に移転し、旧施設は北海道全域に日本畜産の一発祥地として1969年(昭和44年)国の重要文化財の指定を受け、1971年から1983年調査解体修理工事、2014年~2015年(平成27年)耐震改修工事が完了しています。

 2000年(平成12年) 大学評議会は施設の一般公開を決定する事となり、市民や観光の皆様に北海道畜産の歴史を紹介できるようになったのです。

北海道大学所蔵 PD

 左の写真は北海道大学に所蔵されている「模範家畜房:モデルバーン屋上より市街地」を撮影となる写真です。当時は現在の正門の近くに設置されていたそうで、右下は確かに、建築物には不適格な低湿地な状況(現在の中央ローンと思われます。)が見えますね。札幌の街には多くの建物があり、樹木は少ない開けた市街地が形成されているようです。

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モデルバーンModel barnの循環系の畜房構造

 当時の欧州の牧畜は乳牛の耐暑対策のため、春から秋は山場へ放牧され、そこで遠隔地の為、乳加工製品が作られる。明治の日本も同じですが生乳を製品化するには電源による冷蔵設備を要する為、当時にあっては現実的では無いため、乳製品(チーズ、バター等)の製造が中心となっていました。その時出来る乳清(ホエー)が豚の育成に使われる。現在の「ホエー豚」です。豚は牛糞を足元で耕し。それは牧草の育成に使われる。循環農業の構築をこの模範牧舎は実現している。現在の研究に於いても、牛糞等から、熱源エネルギーを生み出し耕作物の生産や牧草の生産への投与により循環農業を形成する研究が進んでいます。

Opening Information  

The inside is unlisted now(2022-JUN)

Indoor opening

Hours:10:00-16:00 Dates April 29-November 3

Outdoor Opening

Hours:08;30-17:00 Tel:011-706-2658 Fax:011-706-4029

e-mail museum-jimu@museum.hokudai.ac.jp

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第二農場の現地案内について 第二農場全体が国指定の重要文化財

①  事務所 1879年(明治12) 開設当初より建てられたものであり、当時としては、かなり 

   開放的な開口部を持った建物です。建物後方部分は1910年移転時に和室などが洋室に 

   改造された際に開口部の形状、ディテールから増築されたようにも見えます。現在も場内

   管理、警備業務等に使用されています。 トイレが外部にあるのも、明治の気配かも?

②  模範化畜房(モデルバーン)  基本設計はクラーク博士、ウィリアム・ホイラーによって、

   1877年(明治10)竣工 バーンフレーム構造ではあるが、一部日本の大工さんによると

   も思われる大柱10本が施工され、小屋組みも補強改造されています。

    1階部分に乳牛、耕作馬、地階にホエー豚、2,3階にあっては  干し草を貯蔵していて、

   嘗ては2階まで搬送用の斜路が設置されていた。(写真を用意)

    2階にあっては、ケプロン招聘時からの米国製農耕器具、パネルによる解説展示があり

   ます。なかにはロシア艦船より日本海軍の戦利品の米国製耕作機(スプレッドマシーン)もあります。

   

③  穀物庫(コーンバーン) 1877年(明治10) W・ホイラー或いはW・ブルックスの設計と

   言われています。完全なバーンフレーム構造ではなく日本の在来工法も取り入れられて

   いるところは、大工さんの経験値も勘案されていたのだと思われます。

    その形状の特徴は古代建築物のような高床式構造であること。

   更に、その基礎付近には、ネズミ返しを見ることが出来ます。

④  種牛舎 1878(明治11) 上層に穀物庫、貯水槽。下層に豚、牛、馬、羊の飼養

   竈、と殺場などを設置、1910年移設改築により、種牛舎となる。ブルックス先生設計

⑤  牝牛舎 1909年(明治42) 左右で、飼育形式を変えている。実験畜舎の形式が外部

    にも見ることが出来る。サイロが出来たことにより、全体的に飼料の保存領域がかなり

    小さく、モデルバーンと比べてもコンパクトになっています。

    内部から、サイロへのアプローチまで見ることが出来ます。

⑥  石造サイロ 1912(明治45) かつては横にもう一基コンクリート製サイロがあった。

⑦  秤量所 1910年(明治43) 馬車ごと計量ができるように建物の前後に大きな開口が

    ある為、四隅に控え支柱を設置している。当時は重量による飼料や収穫物を測定して、しっかりしたと形状のデーターを取る事が重視されていました。

⑧  製乳所 1911(明治44) 開拓時の畜産は電気、冷蔵設備の不足により、製乳の

    流通には限界があった。建物側面上部に設けられている2か所の開口部は製氷の

   搬入口である。高さに関しては、馬車による搬入のための設定である。上部からの冷気が

   建物全体の温度を管理しやすくするものである。 卒業生によると一時、畜産の解剖観察

   が行われたようであります。   

⑨  竈場  1910年(明治43年) 畜産における飼料には消化不良を起こす可能性のあるもの

        もある為、特に養豚などで内臓を守るため煮沸による飼料の提供があった。

         この建物のデザインは美しく、開口部の形状や硝子には少し違う素材があるよう

        な気がします。

⑩  収穫庫 1911年(明治44) コーンバーンと中空通路で繋がっています。内部には耕具

      類が保存されていて、時々展示されることがあるようです。

⑪  原動機室 1912年(明治45) コンクリートブロック造 過去に火災があったと聞いてい

   ます。

模範畜房 モデルバーンModel barn

 初代札幌農学校教頭ウィリアム・S・クラーク博士の大農経営構想により、一戸の酪農家をイメージして、模範農場を当初は正門付近に明治10年(1877年) 日本最古の洋式農業建築が落成しました。なお、クラーク博士離札の折は亘藩の現在の北海道伊達市のハローによる農耕を視察しています。のちに総合大学が整備されるまではこの付近、サクシュコトニ川を境として、西岸を第一農場、東岸を第二農場として農学校の北海道農業開拓の礎石となったのです。学問としての農業の実践ですから多くの資料が残されており、現代の北海道農業の畑作、畜産林業の育英に多く貢献したことは後に伝えて行くべき事だと思います。模範畜房の中には農業顧問として招聘されたホイラーが持ち込んだ洋式畜力農具や、それを改良した北海道農具を合わせて300点以上展示されています。是非とも専任のガイドさんの解説に耳を傾けるのも愉しいかもしれません。サイレージがまだ設置されていない時期の畜舎ですので、冬季の育成飼料の保管スペースが強大ですね。全体で、4層の構造になっています。(地下部分は現在消去されています。)屋根上に置かれたベンチレーター(換気装置)も多種多様になっていますが、試行錯誤の結果だと思います。基本設計は第2代教頭のホイラー先生で、実施図面と現場監理は安達喜幸と言われています。名称については、正式には「産室・追込所及び耕馬舎」と言われています。

   昭和44年(1969年)国の重要文化財指定

Model barnホイラー先生設計
「北海道大学第2農場模範家畜房と明治期農業機械群」
指定年月 =平成13(2001)年10月22日
指定機関 =北海道遺産構想推進協議会
模範畜房
 (1877年)
穀物庫はブルックス先生の設計(1877年)
玉蜀黍庫(コーンバーン)
モデルバーン1階平面図 
北海道大学所蔵
現代の換気システム 参考資料 
株式会社 コーンズ・エージー
〒061-1433
北海道恵庭市北柏木町3丁目104番地
改良を重ねたキング式換気システム

          牛舎の換気システムについて

 牛を複数飼育する牛舎では、つねに新鮮な空気を取り込む「換気」が重要である。第2農場のモデルバーンや牝牛舎は、当初「キング式換気システム」という方式が採用されたといわれる。これは、ウィスコンシン大学のキング博士が発表した重力式換気システムで、汚れた空気は温かく軽いため、建物中央に突き出た高い煙突から自然に出て行く仕組みである。ところが現存のモデルバーンを見ると、中央煙突のほかに小さな煙突が4本追加されている。牝牛舎もしかり。これらは当初のシステムがうまく働かず、長年にわたる試行錯誤の結果、途中で改修・追加されたのだろうと推測される。換気がうまくいかないという事は内部に結露が発生したり、カビなどのバクテリアにより不衛生になったりしたのだろうか?「その後、いろいろなシステムが考案されていますが、どれを採用するかは各酪農家の判断にゆだねられ、いまでも大きな課題になっているのです」。

 新渡戸稲造が書いていますね。「学生の一大富源は所詮手業料にありし。…… 農業実習の担当者はブルックス先生であり、労働は相応の報酬を与ふべし。なれど、われらは時代、安政前後の武家の出仕なれば、金銭を払わる、杯甚だあさましき様に思いたれば、胸中は欲しく地には受領可否に関し討論せる…… これぞ、吾か額にかきたる汗の賃金なり。これだけあれば、五度や十度は蛇足(お菓子屋さんの店名前)似通ふも苦しからじ。課業外にも手業を願い出る輩顕れたり。」とある。士族にとって商人のように安易に金を受け取ることへの抵抗感は維新から10年を経ても未だに残っていることに感心しました。

Nitobe Inazo was an educator, thinker, and agriculturalist who worked for the modernization of Japan from the Meiji to the early Showa period. He entered Sapporo Agricultural College (now Hokkaido University) as a second-year student and was deeply influenced by Christianity. He later worked for the Taiwan Governor’s Office and the League of Nations, and wrote a book called “Bushido” in English to convey the morality of the Japanese people to the world. He was chosen as the portrait of the five thousand yen bill for the period from 1983 to 2003 for his achievements.

The sentence you asked is what Nitobe Inazo wrote in his autobiographical essay “Cultivation”. He talks about receiving money as a handiwork fee from Professor Brooks when he did agricultural training at Sapporo Agricultural College. He was resistant to being paid because he was from a samurai family, but he understood that it was the price of his labor. He learned through this experience that “money is not evil, but it can contribute to human happiness if used correctly”.

This article written by Nitobe Inazo is a valuable document that can glimpse the feelings and values of the Japanese people in the Meiji era. It can be seen that the resistance of the samurai class to receiving money easily like merchants still remains even after ten years from the Meiji Restoration. However, Nitobe Inazo did not get caught up in such old-fashioned thinking, but found pride and value in his work and study. He continued to leave many achievements as a bridge between Japan and the world.

1階部分の牛馬の畜房室です。
Model barn実際は2階部分への牧草搬入の
斜路が設けられていました。
復活するときっと素晴らしい
展示になると思います。
Model barn屋根についているベンチレーター
は色々ですが、試行錯誤の結果だそうです。第2農場のシンボルであるモデルバーンは、南と北の壁に木彫の牛がついている。南側は複製だが、北側は明治10(1877)年の建設当時からのものだ。

北海道大学総合博物館 〒060-0810 札幌市北区北10条西8丁目

E-mail:museum-jimu*museum.hokudai.ac.jp
電話:011-706-2658  FAX :011-706-4029

ミュージアムカフェぽらす

E-mail:museumcafe*tetote.org
電話:080-1891-8073

ミュージアムショップぽとろ

E-mail:potolo*tetote.org
電話:080-1877-9400

※メールを送信する際は、*マークを半角の@

北海道大学も150年

https://sapporowalk.info/hokkaido-univ

初夏の第二農場は爽やかですよ。

第二農場には観光客の方が多く訪れますが市民にも人気があります。写真撮影やスケッチを楽しまれる方も多く、夏は多くの樹木のおかげで冷涼な空気に包まれています。この巨大なモデルバーンは、なんと、札幌時計台と同じバーンフレーム構造なのですが、上階に登るとわかりますが当時の日本の大工さんは補強に大きな柱を採用しているのが分かります。マサチューセッツはメキシコ湾流の影響で積雪が札幌程ではない(20cmでも大雪と呼ぶ)ので積雪荷重による下部構造への歪みは大きくなるだろうと言う経験値の表れだと言われています。時計台も2階には膨らみ防止の水平補強を見ることが出来ます。

現在はコロナ禍で、内部はご覧になることはできませんが、外観を見るだけでもきっとあなたを感動させることに間違いがありません。札幌の街の中心部にこれほどの北海道らしさを見ることが出来る場所はここを置いてそうは無い思います。わずかなお時間でもご覧いただける時間を頂くことが出来れば幸いです。専任の案内ガイドをご希望のお客様はあらかじめ時間をおいて、北海道大学総合博物館事務局へお問い合わせください。

屋外公開 8:30~17:00
屋内公開 10:00~16:00 ※現在公開を休止しております。(模範家畜房・穀物庫・牧牛舎)
期間(屋内)未定
(屋外)未定
休館日毎月第4月曜日
入場料無料
北海道大学総合博物館
直接問い合わせをするときはここのinfomationで 
キャンパス中央にあります。
日露戦争の戦利品らしい?
2階から飼料を落とし
込めるようになっています。
ハロー(耕作器具)がいろいろあります。
展示の教材が多くて、しっかり見ていると日が暮れてしまいます。
札幌村郷土記念館のはく製馬
にも負けていませんね。
農場庁舎の直ぐ西側のエルムの枝に取り付けられていたエルムの鐘です。
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北海道大学総合博物館パンフレットより 
バーンフレーム構造は現在の2×4構法の原点となった構造ですが、
当時の日本の大工さんも柱梁構造に比べると大スパン構造にしては軽量な小屋組みになる、
屋根の積雪による構造体のふくらみを避けるため、自らの判断で柱を付け加えたりしています。
札幌時計台や、屯田兵中隊本部もこの小屋組み構造になっているようですよ。
ネズミの被害を防ぐ為の古代からの防御です。
当時は癒えネズミよりは野ネズミの被害が多かったようです。
野ネズミ、見たことありますか?かわいいですよ。
内部は玉ねぎが保存されている訳がなく、
道内各地から集められた農着が展示されています。主に米国から輸入された農具を自ら改良した痕跡など見られます。

札幌農学校 卒業生

黒岩 四方之進 1856-1929 高知県安芸市 1期生

新冠牧馬場(後 宮内省御料牧場) 初代牧場長

退官後は日高国直別に一大農場を経営して
村民から直別の聖人とあがめられた。

  1887年(明治10)年1月30日一行14名は深い雪につつまれた手稲山にいどみ,山頂近くで大樹に付着した地衣を発見した。クラークは級中で一番背の高かった黒岩を「土佐ボーイ!」とさし招き,自分は雪の上に四つん這になり,背中にのって地衣をとるように命じた。黒岩はちゅうちょしながら靴をぬごうとしたら,さらにそのままのれと言われ,やむをえず土足でクラークの背にのり地衣をとったという。

 土足で恩師の背に乗った黒岩四方之進は、クラーク先生の寛容な心に胸打たれ、「イエスを信ずる者の誓約」には一番に進み出て署名したといわれている。

家畜改良センター新冠牧場概要
新冠牧場は、明治5(1872)年、北海道開拓使長官黒田清隆により創設され、間もなく
1
55 年を迎える歴史と伝統ある牧場です。新冠御料牧場は,明治5年(1872)に開拓使が北海道日高国に設置した牧場をはじまりとする。明治5年に開拓使が設置した牧場は,北海道日高国静内(しずない)・新冠・沙流(さる)の3郡にまたがる約7万ヘクタールの土地に設けられた。明治16年12月,農商務省所管の新冠牧馬場が宮内省へ移管され,明治21年には主馬寮の所管となり,同場の名称も新冠御料牧場に改められた。幾多の変遷を重ね、現在は新ひだか町静内御園に事務所を置き、総面積約 2000ha、900 頭のホルスタイン種を飼養し、我が国乳用牛の育種改良に貢献することを使命に、活動しています。
具体的には、国内外から優良な牛の精液や受精卵を改良の素材として導入し、受精卵
移植技術等の先端的な技術を使って、遺伝的能力の高い乳用種雄牛や乳用種雌牛を生産・
供給しています。乳用種雄牛の作出については、家畜改良センターの十勝牧場及び岩手
牧場と協力・連携しながら進めています。

天皇陛下ご来場
2006 年9月7日、国際顕微鏡学会議等で来道中の天皇・皇后両陛下が、新冠牧 場
をご視察されました。当場は、旧御料牧場で皇室にゆかりがあり、過去には、伊藤 博
文公爵や皇太子殿下(大正天皇、昭和天皇)など、多くの皇族や賓客を迎えました。
当日は、あいにくの曇り空でしたが、事務所内で牧場の業務内容をご説明後、二十
間道路や種雄牛及び雌牛の放牧風景をご覧いただいた後、明治42年に皇族の貴賓舎
として建てられた龍雲閣をご案内しました。約1時間のご滞在でしたが、最後に、「今
後ともよい牛を作ってください。」とのお言葉をいただきました。

(佐藤昌介)博士は在校当時より学者風にて余輩の如く野外に跳び回はるよりも寧ろ室内に静かに読書するを好まれ……級中の年長者にて頗る老成の風あり……終始開識社の社長に推され其の発展に大いに貢献せらる又討論題の如きはいつも適切なるものを提出し討論の趣味を喚起せしめたり。唯博士の「ザジズゼゾ」音の不明瞭なるより、時に他のワンパク者より苦しめられることあり、小生もその苦しめたる一人に洩れず今日に至るも、之を思えば気の毒の感堪へず、博士は在校当時より囲碁を好まれ其頃幹事たりし森源蔵氏杯と闘戦し「スマッタ……」の声を聞くこと珍敷からざりし。 『文武会会報』第65号より

北海道大学所蔵 PD

南 鷹次郎 1859-1936 長崎県 大村市 2期生

 北海道大学文書館年報 第5号 2,010年3月

 札幌など自分らが来た当初は戸数が千戸位。北三条の旧校舎すなわち、その当時の農学校のあたりは広々たる野原で感謝が所々に散在して居た位である。農場の事務所から、街へ出るにも吹雪の夜などは随分見当を失って、途方もない方に出たりすることがあった。嘗ては学校の前に鹿が飛び出したこともあった。

 第二農場にあるバーンは……明治二十年頃には其の裏あたりにまだ熊が出て、放牧の豚を食ふたことが三、四年続いたくらいだ。自分は亀に乗せられた浦島を見たような気がす。 

                  文武会会報 第55号

とあります。確か明治11年(1878年)丘珠事件もありましたね。

The Buildings

The bulildings composing the Model Dairy Farm of Sapporo Agricultural College (formally, the College of Agriculture, Tohoku Imperial University), desingnated as a national important Cultural Property (structure),are not only highly valued as Meiji-period buildings, but they also enhance the scenery, thereby becoming an appreciated sightseeing spot Hokkaido Universuty. from a brochure

第二農場 建築物群

 右手最初の建物はこの中では新しく、第二農場がここに移設された際に建設された牧牛舎です。サイロ(サイレージ)を設置した牛舎でその分コンパクトになってきています。(確認はできていませんが、当初は2基のサイロがあり、コンクリート製であったため、撤去されたと聞いています。)もう一つの特徴は研究施設の為、左右の構築が内部と外部で違う形式になっています。外部からよく見るとわかりやすいシンメトリーになっています。ここでは現実の家畜を見る事はできません。彼らは防疫上守られなければならない存在だからです。キャンパス牧場でご覧になる場合は、遠方よりの風景の一部となるでしょう。恐ろしい牡牛舎、氷が大量に使われたため、一時期解剖の実習が行われていたと聞く(北大農学部卒業のガイドの先輩から)精乳所、釜場、秤量所、脱粉室、動力室、クラーク教頭が設計したと言われる現在警備室とも言われている事務室などが整然と配置されていますが、自分のわがままを言わせていただければ、この敷地は4倍必要かなと思います。

 秤量所Weighting capacity place

 1910年(明治43年) 建築群が移設後に出来た建物で荷馬車ごと計測できるトラックスケールを内蔵しているそうです。柱の四隅に控えの方立柱が特徴的で面白いですが、2面を大きく開放すると建物全体の構造的な脆弱性を制御するためには必要不可欠な部位であることが分かります。

牧牛舎 1909年軟石サイロ(緑餌貯蔵室)
と根菜貯蔵室(左の煉瓦造り平屋)建物裏で見ることが出来ます。以前はコンクリート製のサイロもありましたが、今は撤去されています。
 
牧舎とサイロの間には長い梯子がありました。
事務室 1879年 国の重要文化財
問い合わせは総合博物館へお願いします。
ここで入場記録をお願いします。
記念撮影スポットになっています。OLYMPUS DIGITAL CAMERA
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大昔の第二農場の様子

 ここで飼育されてきたホルスタイン種は今日まで150年近く血統が維持され続け、代表的な種オス牛キングヘンドリク、そしてその娘牛クィーンヘンドリクノブは14,250KG(6.5歳365日搾乳)と言う、好成績な泌乳記録を持っているのです。この血統は雌雄ごとに1,620産を越えて、有料種は北海道の基礎牛となり北海道畜産に大きな貢献を残しているのです。

 当時、国の方針として二つの農学校が誕生した。一つは日本の伝統的な農業をさらに深めて研究していく駒場農学校(東京大学農学部の前身)、そして北海道という広大な原野を農地に変えていく欧米式の大規模農業を研究する札幌農学校。近藤名誉教授によると「クラークは世界的な視野があったから最初から学位を出した。つまり、札幌農学校は世界に通用する大学だった。箱館戦争で刀を振り回していたような少年たちが、“これからは学問の時代”と大学に入学してみると、講義がすべて英語であったという衝撃。それでも必死に吸収し、消化していく。当時の記録を読むと、世界的にも最先端の講義をしていたことがわかります」札幌時計台にも、四年制大学学士としての卒業証書が展示されています。わが国初の大学として成立していたと言えると思います。 

 「サイロは、青草やトウモロコシを密封して乳酸発酵させて通年使えるようにする施設。19世紀中期にフランスで一般化して、イギリスで使われるようになり、クラークが札幌に来た時代には、アメリカでやっと試験が始まったくらい。でも、この牧牛舎を建てた1909(明治42)年には、もうサイロを採用している」という話を聞くと、当時の最先端施設で学んだ学生たちの高揚感が伝わってくる。

 酪農で大切なのが牧草である。夏場は自然に生えているが、北海道の様な冬場の牧草飼料はどうしているのだろうか?牧草は乾燥させた乾草として給与するか、発酵させた牧草を使う。かつては牧草を気密度の高い塔型サイロに入れて発酵させていた。現在では保存等のためにビニールで密封、乳酸発酵させてサイレージとして給与することが多い。こうした発酵の知識は、古くから伝わってきたものが多いが、これを科学的に分析して、適度な酸性の強さを発見し、新鮮な牧草の保存法「AIV法」を開発したのが、フィンランドのノーベル化学賞化学者アルトゥーリ・ヴィルタネン(Artturi Ilmari Virtanen)「農業化学と栄養化学における研究と発見」である。

 現代のサイレージはタワー型からバンカー型、チューブ型、そして、皆さんが良くドライブ中の放牧地で見かける下の右側のラップしたロール型のサイレージなど日々の進化を続けているようです。すでに牧畜だけではなく農業はあらゆる学問を結集した総合科学の産業となっています。恐らくはこれだけの技術力を要する産業へと発展するには、多くの社会的資本が必要となってくるでしょう。もはや個人経営の時代ではないのかもしれません。ウィリアム・S・クラーク博士が最初に唱えたように北海道における大規模経営農業の実践が求められる時代に、今こそなったという事なのでしょうか。

八紘学園吉田牧場
ロールサイレージ・これが
1年も保管可能だそうです。
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 札幌農学校2 期生の「町村金弥」(1859-1944)が真駒内牧牛場勤務となり、エドウィン・ダンがこの年12 月札幌を離れるまでの短期間でしたが、ダンの直接指導を受けたのでした。エドウィン・ダンの牧牛場からはじまった真駒内の開拓は、肥沃な土地に恵まれたこともあり、地域の人々の野菜・果物作り、また種蓄場に納める牧草や根菜類の耕作も広まっていきます。金弥は、在学時代、ウィリアム・ブルックスの農学の講義とアメリカ式大農経営、さらにダンの指導も受けて欧米式大農場の経営法を学んでいます。1881 年(明14)7 月卒業すると同時に開拓使御用掛に採用され、真駒内牧牛場の担当となり、短期間ですがダンの精力的な指導を受け、翌 1882 年(明 15)には真駒内牧牛場長(農商務省管轄)になります。この年2 月開拓使は廃止となり、ダンは職を解かれて札幌を去ります。金弥は、真駒内牧牛場が、1886 年(明 19)北海道庁管轄「真駒内種畜場」になるまでの 5 年間勤めています。金弥は、多くの大牧場開設経営の指導に当たっていますが、最も大きな功績は、後に北海道の酪農界を代表する、「宇都宮牧場」の宇都宮仙太郎と「町村牧場」の町村敬貴の二人を養成したことだといわれます。

苦労を重ねて酪農業を立ち上げた宇都宮仙太郎(1866~1940)や黒沢酉蔵(1885~1982)らの努力があって、後に雪印乳業設立の重要な役割をはたすことになります。黒沢は、1933 年(昭和8 年)、江別に「酪農義塾」(現在の酪農学園大学)を設立しています。今回は、こうした「酪農王国」北海道の基礎を築いた先駆者たちの苦労とその業績にスポットをあてて検証してみたいと思います。まず,その前史ともいうべき幕末、そして明治の開拓使時代(1869~1882)の農業、牧畜・酪農の歴史をたどることから始まります。

町村金弥
酪農発祥の地 出納邸近傍
町村敬貴
宇都宮仙太郎
エドウィン・ダン記念館
こちらも、ぜひお越しください。
住所:北海道札幌市 南区真駒内泉町1丁目6-1
電話:011-581-5064
最寄り駅:真駒内駅[出入口1]から徒歩約11分
https://sapporowalk.info/edwin-dun-memorial-hall/
有名な二十間道路の突当たりに、
かつての御料牧場の事務所があります
(大正9年築・1920)

 江戸時代の1799年、幕府は日高地方南部に60頭の南部馬を導入した。使役を目的としていたが、対象の期間以外は山野に放牧された。すると、自然に繁殖する。数は次第に増え、江戸末期には数千頭の大群になった、と伝わっている。

 新冠牧場は、和種馬の大型改良のため明治5年に開拓使のトップ黒田清隆が進言し、開設した国営の牧場(当初は開拓使所管)。
明治10年、アメリカ人技師エドウィン・ダン(Edwin Dun)が門別・新冠・静内の3郡にまたがる約7万haに及ぶ大規模な牧場を設計。
野生馬2226頭を集め、明治16年、宮内省所管・新冠牧馬場(明治21年、新冠御料牧場と改称)を開設したのです。

番外編 秋山好古

 好古は欧米の農業大国・デンマークを例に挙げ、同国の国土や農業生産力を抽象的に説明するのではなく、的確な数値を用いて、解り易く説明しています。好古は軍人時代にフランスに騎兵を学ぶために長期間留学をしており、ヨーロッパの地理や情勢に詳しかったですが、これ程、数値を事細かく数値を用いて、農業大国・デンマークを説明したという事は、普段から農業・畜産に強い関心を示し、世界各国の農業を勉強していた証拠です。
 好古の講演は未だ続き、今度は北海道の人口増加、農業・牧畜の発展に着目し、これからも更に同地の牧畜業が発展してゆく事を述べており、そして正確に言い当てています。

 司馬遼太郎氏の代表作、日露戦争を描いた「坂の上の雲」の主人公の1人、同名ドラマでは俳優の阿部寛さんが好古を演じていました。彼の生涯、最大の功績は、当時世界最強と言われた露軍のコサック騎兵隊に対抗する為、日本陸軍騎兵を一から作り上げ、日露戦争に活躍したことでしょう。

 晩年は、故郷愛媛(伊予)に戻り、当時無名であった私立北予中学校(現・愛媛県立松山北高等学校)の校長に就任。学期の始業式或いは終業式に於いてはいつも自ら訓話をなしたが、その中で特に記すべきことは、『我国の産業、就中農業、牧畜業を重視し、我国の社会問題中の難問題たる人口問題、食糧問題等を解く鍵は、正に此所(農業・牧畜)にありと考へ、生徒に対し熱心に農業、牧畜等を鼓吹した』

 「私は、今年も例によって北海道に赴き、牧畜・農業に従事してきましたが、北海道は年々発展しており、殆ど人口も300万人以上になり、米も300万石(約54万トン)を産するまでに至りました。将来、その人口は1千万人以上になり、米も1千万石以上を生産するでしょう。(中略)私が従事してきた牧畜業は、年々発達し、牛馬羊豚の動物も非常な発育をなし、国内の牧畜は、北海道が最高位に達する状態です。『例えば牛乳は、1合当たり1銭5厘ですが、都会に於いては5銭または10銭になります。故に牛乳を原料とするバター・チーズ・コンデンスミルク(煉乳)などは、将来北海道にて多く生産されるようになるでしょう。』もし将来北海道がデンマークの様に発達したならば、数十億の輸出を成し得るであろうと推察します。」このころすでに、大規模米国農業よりも縮小したデンマーク式農業を評価していたのでしょう。

2005年にできた新たな研究農場。近藤誠司名誉教授の提案で、放牧飼育が三谷准教授たちが実現している。北海道や、日本を支える7ヘクタール 手前は平成ポプラ並木です。 OLYMPUS DIGITAL CAMERA

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