札幌の街を歩いたことのある人は北一条通にある北原白秋が「いつか来た道」に謳った白い建物を見たことがあるだろうか。札幌の中心部にあるこの小さなさっぽろ時計台に気が付かず通り過ぎていた人がいても、決して不思議ではない。昨今は観光客が溢れている状況なのでそのようなことは少ないかもしれません。知識に乏しい人には「日本の三大がっかり」などと表現する方もおられると聞く。おそらくは中にも入ったことない人たちだと思う。 少なくとも、札幌市民憲章の序章に「わたしたちは時計台の鐘の鳴る札幌の市民です。」と表記され、札幌市のカントリーマークにもなっている国の重要文化財・札幌市有形文化財第一号として、札幌の歴史的文化的シンボルであることを知っている者・札幌市民として誇りを持つ者にはその様な表現を許す者は一人としていないのは確かなことであります。
If someone has walked through the streets of Sapporo, they may have seen the white building that Hokkaido’s poet Hakushu Kitahara once sang about in “Itsuka Kita Michi” (“The Road I Came One Day”). It wouldn’t be surprising if someone passed by the small Sapporo Clock Tower in the heart of Sapporo without noticing it, especially given the recent influx of tourists. Some people, lacking knowledge, might even refer to it as one of “Japan’s three biggest disappointments.” Presumably, these are individuals who have never stepped inside.
At the very least, those who are aware that it is mentioned in the preamble of the Sapporo Citizen’s Charter as “Sapporo citizens who hear the bells of the Clock Tower” and is designated as National Important Cultural Property and Sapporo City Tangible Cultural Property Number One, understand that it is a historical and cultural symbol of Sapporo. For those who take pride in being residents of Sapporo, such expressions are not acceptable.
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まださっぽろが開拓の夜明けの中にいたころ、北海道は帝政ロシアの南下化に対峙するための軍事と開墾開拓を目指し、明治4年に北海道開拓に招聘された当時の米国農務長官の職を辞して米国開拓の知識を深くこの北海道・札幌地に注いだホーレス・ケプロンは開拓使黒田清隆次官に強く、札幌農学校の設置と、米国の農学教授の招聘を強く勧めました。
During the dawn of Sapporo’s development, Hokkaido aimed to confront the southward expansion of Tsarist Russia through military and agricultural colonization. Horace Capron, who had turned down the position of United States Secretary of Agriculture in order to immerse himself in American colonization knowledge, strongly urged Vice-Governor Kuroda Kiyotaka of the Hokkaido Development Commission to establish Sapporo Agricultural School and to invite American agricultural professors.
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米国MAC マサチューセッツ農科大学の第3代学長ウィリアム・S・クラーク博士が何故に当時、この極東アジアの小国日本の辺鄙な人口3000人程度の街の農学校の設立の為、猛反対のMAC理事会を説得してまで、開拓使の希望する2年間の任期を「私は1年を以て、これを成し遂げる。」と宣言する。当時もちろん、1876年明治9年 海路で東京に就くと、東京外国語学校にて生徒と面接して、聖書の手配を行い、札幌に赴くことになります。8月14日 彼を教頭に迎え、札幌農学校は開校します。
“Why did Dr. William S. Clark, the third president of Massachusetts Agricultural College (MAC), persuade the MAC board of directors, who were strongly opposed to the establishment of an agricultural school in a remote town in Japan with a population of about 3,000 people in East Asia at that time, to declare that he would accomplish this in one year instead of the two-year term desired by the Hokkaido Development Commission? Of course, in 1876 (Meiji 9), he arrived in Tokyo by sea, met with students at Tokyo School of Foreign Languages, arranged for the distribution of the Bible, and then proceeded to Sapporo. On August 14th, he was welcomed as the head teacher and Sapporo Agricultural School opened.”
これよりさかのぼること、1971年明治4年 渡米した折に黒田清隆の熱烈な招聘を受けたホーレス・ケプロンは米国農務長官の職を辞して、北海道の開拓のため、開拓使顧問として、その辣腕をふるうことになり、江戸幕府時代より帝政ロシアの南下による多大なる問題を解決すべく、蝦夷地「北海道」、日本領土として、開拓の急務を果たす使命を帯びた。先ずはケプロン初期報文として、東京と札幌の官園に農学校を設置し、化学試験所を併設の上、専門の教授を置く。軍事とともに農業の確立こそ開拓使の最重要事項であることを伝えた。
“Going back to 1871 (Meiji 4), when Horace Capron received a passionate invitation from Kiyotaka Kuroda during his visit to the United States, he resigned from his position as United States Commissioner of Agriculture to serve as an advisor to the Hokkaido Development Commission and to use his expertise for the development of Hokkaido. He was tasked with solving the major problems caused by Imperial Russia’s southward expansion since the Edo shogunate era and with fulfilling the urgent mission of developing Ezo (Hokkaido) as Japanese territory. As an initial piece of advice, he suggested establishing agricultural schools in official gardens in Tokyo and Sapporo, setting up chemical laboratories, and appointing specialized professors. He conveyed that the establishment of agriculture, along with military affairs, was the most important matter for the Hokkaido Development Commission.”
ここで、一人の人物が登場する、京都同志社大学創設者であり初代社長 新島襄である。1864年元冶元年 箱館湾に停泊するアメリカ商船「ベルリン号」に乗り込み、22歳にして国禁を犯して密出国し、上海に渡って翌年アメリカのボストンに着きました。彼はフィリップス・アカデミー在学中洗礼を受けてニューイングランドのピューリタンの仲間入りをした。アカデミー卒業後アーモスト・カレッジに学び、キリスト教の宣教師として帰国することを考え、アンドーヴァー神学校でニューイングランド神学を学んだ。アーモストカレッジに学んだ時に後に森有礼への紹介者となるノースロップと鉱物学者としてのクラーク博士と出会うこととなります。彼の素晴らしい学業は今もアーモストの行動に肖像画が飾られているほどであり、クラークが感動したのはそのキリスト教への親交の深さであったようです。クラーク博士が札幌で開拓のための農学校の設立の為に専任教頭を求めていることに、日本人の生徒に強い関心を抱いたことは想像に難くないのかもしれません。
私はそう信じたい。
“At this point, a new figure appears: Niijima Jō, the founder and first president of Doshisha University in Kyoto. In 1864 (Genji 1), at the age of 22, he boarded the American merchant ship ‘Wild Rover’ anchored in Hakodate Bay and illegally left Japan for Shanghai. The following year, he arrived in Boston, USA. While studying at Phillips Academy, he was baptized and joined the New England Puritans. After graduating from the academy, he studied at Amherst College and considered returning to Japan as a Christian missionary. He studied New England theology at Andover Theological Seminary. While studying at Amherst College, he met Northrop, who would later introduce him to Yōri Mori, and Dr. Clark, a mineralogist. His outstanding academic achievements are still commemorated by a portrait hanging in Amherst’s chapel. It seems that Clark was impressed by the depth of his friendship with Christianity. It is not difficult to imagine that Clark was interested in Japanese students when he was looking for a dedicated head teacher to establish an agricultural school for development in Sapporo.
I would like to believe that.”
創建時の札幌時計台は「札幌農学校演武場」の窓を見て頂きたく思います。当時はまだ日本ではガラスの製造が始まっておらず、建具の大きさは輸入された製品としての硝子の寸法により決定されているため、ほとんどの建具は同じ形状同じ大きさになる。札幌でガラス製品が出来るのは明治20年代で皆様がよく見られるコップや、ランプの火屋程度のものであり、この時代の札幌の見地物のひとつの特徴になっている。その様な視点で明治の建築物を見学されるのも一計かなと思います。
旧札幌農学校演武場
札幌農学校のカリキュラムにおいて、最も特異な教科目の一つにMilitary Drill が挙げられる。当時の訳名はまちまちで、札幌農学校第一・第二年報では「武芸」であり、第三・第四・第五年報では「兵学」となっている。その他の農学校関係資料では「演武」「練兵」と表記されている。これまでに刊行された北海道大学の「通史」は、いづれも「札幌農学校編」のなかでミリタリー・ドリルを扱っているが、同校のミリタリー・ドリル教育を以て「我が国学校操練ないし兵式体操の先駆」とする点で、評価は一致している。 それは、教頭代理ウイラー(W・Wheeler) による兵学及び健康学教員等の雇い入れに関する調所廣丈校長宛の提言に始まる。 ミリタリー・ドリル教員の採用に関して、ウイラーはウエストポイント陸軍士官学校出身者で、かつ数学・図学を教授し得る人物を想定している。
「北海道大学教育学部 鈴木敏夫先生 札幌農学校のミリタリー・ドリルより中節」
一方、陸軍省内部では、札幌農学校に出向させる士官の人選は進まなかったが、 月に至り事態は君展開を遵げた。この聞の模様を、安固定則大書記官より調所校長に掘てた電報によって知ることカヲ出来る。
学校教師ノ構兵学ハ陸軍省へ照会セ ニチトムツカンク、ソノ桂長官(黒困)ヨリ陸軍
卿(神田)へ直談ノよ壱名ヲ譲ルコトニナリ、今陸軍ニテ人選中
八月三十一日 ,,’
電文によれば、最終的に開拓長官と陸軍卿の会談によって、事態収拾が図られたことを示唆している。ここにおいて陸軍省は、現役士宮一名を札幌農学校に出向させるという基本方針を確定した。その結果、開拓値は陸軍少尉加藤重怪を、札幌農学校のミリタリー ドリル教員として正式に揮用し、 11 日付で辞令空付した。
陸軍少尉加藤重住開拓五等属兼住ニ付陸軍省へ御廻答案
当値札幌農学校武芸教員トシテ陸軍士宮御謹捜之瞳御世頼置候処陸軍少尉加嘆重怪御差
出相成候ニ付本日左ノ通相違怯就テハ是手数腰ケ候段深謝候右御回答暢此段’i’進候
十一年十一月ー日
開拓憤大書記官安固定則陸軍大症小沢武雄監
陸軍少尉加藤重任兼任開拓五等属
札幌在勤申付候事 開拓世間
既に加藤の採用に先立つ ヶ月前に、懸案の演武場が落成した。
旧札幌農学校演武場、現在の札幌時計台が創建された明治10年(この時すでにクラーク博士は離札してます。)にはまだ、
建物の上部に時計は上がってなく、鐘が下がっていました。日本の太陽暦が始まったのが明治6年、
明治5年新橋ー横浜に鉄道が開通、明治8年豊平川に橋が架かる。
札幌にも急速に文明開化の大波が押し寄せています。
さあ、鉄道=時間、まぁ、とにかく、何につけ、忙しい時代です。落成式に誰かが、
恐らくは黒田清隆開拓次官だと想像しますが、「これは、時計塔でなければならない。」と叫んだと思いますよ。翌年、
明治11年にウィリアムホイラー先先は開拓使の命より、米国エドワード・ハワード社へ発注依頼します。
あ、そういえば、新橋ー横浜開通時の列車の時刻は干支で表示されてた? な、訳はないですよねぇ!ちなみに、
この、たしか、明治6年の太陽暦採用、当時の明治政府がいかに財政窮乏していたかの一つの象徴です。
なんとその年は閏年で、年に13か月「これは、やばいぜ!」というのは真実らしい。福沢諭吉も「この採用を疑うものは愚か者である。」と言ったか言わないか。
まぁ、迷走記事ですいません。
さて、明治12年横浜経由でニューヨークから時計がやってきました。ところが、荷解きしてびっくり、というか、
当時の日本人には量産製品の概念がなく、何事も注文通りのものが届くと信じているから、
「こりゃあ、どう見ても建物の梵鐘の位置には収まり切れないぞ!」「どういうことなんだよ!」と大騒ぎです。
開拓使次官の黒田清隆はカンカンに「発注したホイラーの責任は重大だぞ!」
ところが、ホイラー先生は新婚旅行で不在。「もう返却か、別な場所へ」という処へホイラー先生が戻られたら、
「発注の条件に大きさが合わなければ、建物を模様替えする事を、発注書に記載してるのは開拓使も了解のはずです。
そもそも、黒田長官の考察と意義は、広く札幌の住民に時刻をしっかりと意識させることにあり、今これを返却、
委譲すべきではありません。」と説得し、演舞場の改築が決定したのでした。明治14年現在の姿になりました。
鈴蘭 スズラン lily of the valley
科名: キジカクシ科
学名: Convallaria majalis var. manshurica
別名: ーーー
原産地:日本(北海道、本州、九州)、朝鮮、
中国、シベリア東部
開花期: 4月、5月、6月
撮影場所 旧札幌農学校演武場 MAY-2023
さっぽろ時計台はよく「日本の三大がっかり」と言われる方をお見掛けします。そう言いながら中を見ずに立ち去る方もおられますが、この玄関をくぐった人達の多くがそのような意見に同調されるとは信じることはできません。何故に札幌の市民憲章の序章なるのかを御存じでしょうか。正にこの場所である札幌農学校の敷地の一部に建つこの建物が持つ独特の雰囲気は現在に至る時を経ても、その高貴さは少しも失われてはいません。一部では時計が大きすぎて、不格好だと言われる方もおられるようですが、私個人は全くそうは思いません。個性的で印象深い建築物だと思っています。創建当時のクラーク初代教頭や米国教師たち、第一期の官費生たち、開拓使の役人、市民はこの建物に大きな夢と希望を以ってその脳裏に焼き付けたことは間違いありません。もの知らぬ者達の妄言に寂寞の思いです。
Sapporo Citizens’ Charter
札幌市民憲章
We the citizens of Sapporo, where the chimes of the Clock Tower can be heard, declare:
わたしたちは、時計台の鐘がなる札幌の市民です。
We shall work hard and build a prosperous city.
元気ではたらき、豊かなまちにしましょう。
We shall keep our skies, streets, grass, trees, and waters clean.
空も道路も草木も水も、きれいなまちにしましょう。
We shall obey laws and make our city a pleasant place for all.
きまりをよくまもり、住みよいまちにしましょう。
We shall make our city a happy place for our children who will build the future.
未来をつくる子どものしあわせなまちにしましょう。
We shall raise our cultural standard through cultural exchange with the people of the world.
世界とむすぶ高い文化のまちにしましょう。