観光

JR 札幌駅

JR Sapporo station

JR 札幌駅 南口
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この日は週末 皆様、カジュアルです(^^♪
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平日の朝は大ラッシュです自分も高校通学に利用
させていただきました。当時の一か月定期券が530円
と覚えてますが、どんだけ安かったのか。(^^♪
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札幌の玄関口

札幌駅の一日の乗降客数は近年では20万人ほどです。かつては、国鉄札幌駅を中心に国鉄バス、札幌市営バス、花形であった札幌市営の路面電車が、郊外地域と中心部、さらに近郊都市へと、交通のネットワークが充実していた時代があったが、今は、札幌市営地下鉄、国鉄バス、じょうてつバス、都市間高速バスそして、タクシー広場が、それに置き換わってはいるが、この街の大動脈であることに変わりはない。今年みたいな降雪の多い年は交通障害で、数日完全にやられちゃうと、これが大変なことになります。特に毎日の通勤に使っている人も大変だし、新千歳空港駅にも行けなくなり、空港にも泊まり込む人たちまで出る始末です。雪対策は過去からの大課題なのに21世紀の現代でも解決できない。ジィちゃんの考えだと、これは技術的な問題ではないところが一番のお問題なのです。今年は線路だけでなく、市内の道路の除雪にもイマイチ市民には燻るような不満感が残っているのだ。何しろ、今年はコロナ禍で、雪まつりなどのイベントがなかったんですよ。雪まつりなどは内外から二百数十万人のお客様が来られるので、札幌市もしっかりお化粧のように道路の除雪をしっかりきれいにやっていたのですが、さすがに、コロナ禍では力が失せたのか、住宅街では車が交互交通し、平常にすれ違えないどころか、歩道で、歩行者も同じような状態でした。JRさん、来年はお願いします。皆さんの期待を裏切らない大雪対策を頼みますよ。それでも、ここにはいつの時代になっても、いくら寒くても、なぜかぬくもりを感じてしまうのは自分だけなのだろうか。札幌だけではなく、北海道の開拓を支えてきたその力強さだけはいつまでも保ち続けてほしいと願うのはジィちゃんのワガガママのなのかな。

北海道大学などへの北口です。
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お土産屋さんや、飲食は多数
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さぁ、札幌の街へ出掛けましょう。OLYMPUS DIGITAL CAMERA
最初の札幌停車場
JR北海道所蔵
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開拓の村にある三代目駅舎レプリカ
国鉄時代の除雪風景
JR北海道所蔵
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今でも駅前通りは札幌駅停車場通りと言うらしいですよ。
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炭鉄港:石炭産業と鉄道と港湾開発

幌内の石炭は,1872年(明治5)開拓使庁に札幌の住民早川長十郎が同地の石炭塊を持ち込んでからである。翌年春にはライマンが調査を開始し,榎本武揚も夏に調査に乗り出している。既述したように,ライマンはその後数回にわたって同地への調査を繰り返した。ライマンと榎本の関係はあまり宜しくは無かったと伝えられています。どちらも技術者としてのプライドが高かったのだと思われます。この調査により,同地は埋蔵量が豊富であり,炭脈・炭質ともに優良との判断が下された。この結果,1875年(明治8)から翌年にかけて大鳥圭介(箱館戦争時、榎本の部下),黒田清隆開拓使長官,参議伊藤博文,同山県有朋などの政府要人が次々と幌内を視察し,官営の計画が進められた。翌年ライマンが幌内の調査報告書を提出し,その報告書を基礎に1877年には幌内炭鉱開発のプランが作成され,78年には開発費として150万円の起業公債による出資が決定された(そのうち17万円は茅沼炭鉱改良費)。

ライマン彩色指定稿の台紙は39cm×48cm大,刊行された地質図の台紙よりひとまわり小さいが,図そのものの大きさは変わらない.台紙の紙質は粗悪で,薄く,縦横方向にそれぞれ三折にされる.英文個所は全て空白.黒色インクにより印刷された原図に,ライマンが手描き彩色している.多くの部位において彼の筆タッチが見てとれる. 本稿の発見により黒色版が和文・英文の計二刷あったことが明らかとなった.日本蝦夷地質要略之図は層序表記のため七色使用されることから,少なくとも九刷という,かなり複雑な工程を経て印刷されたものであることが想定される.

日本には多色刷り地質図を作成した実績がなかったため,ライマンは当初米国での印刷を希望していたが,試し刷りが届けられ,維新後石版印刷に登用されていた“最後の浮世絵師”たちの仕事振りを実見し,彼は大いに驚かされたのでなかろうか.ライミンは試し刷り原図に彩色指示を入れると,英文原稿をあわせて,いそぎ印刷所に送った.和英併記による微細な地名印刷を黒インク二度刷りにより精確に仕上げた職人たちこそ,かつて髪の毛一本までをも彫り,そして刷りあげた,江戸-明治期異色技能者たちだったのである.

北海道大学附属図書館 所蔵

 官営決定後,開拓使では札幌本庁内に煤田開採事務係を設置し(1878年10月),外国人技術者を雇い入れ,1879年(明治12)から開坑の準備にとりかかっている。運搬手段がまったく整備されていなかった当時にあっては,まず石炭の運搬手段を確保しなければならない。このため雇外国人クロフォードやゲントが鉄道建設に必要な測量を行ない,その結果を慎重に検討して幌内→江別→札幌→小樽・手宮に至る鉄道敷設計画が決定され(同年12月),翌80年1月より鉄道建設工事が開始された。

開拓使では鉄道資材・機関車・機械類の購入と職工雇い入れのためクロフォードを米国に派遣し,同年7月彼の帰着とともに軌道の敷設が始められた。こうして11月には小樽・手宮~札幌間、明治14年、明治天皇の北海道行幸の際、手宮札幌間のお召列車をお使いになっています。翌年6月には札幌~江別間が開通し,1881年(明治14)11月に江別~幌内間が完成して手宮~幌内間約90キロメートルの全線が開通し,幌内炭鉱の運搬手段が確保された。

駅前通りに路面電車が走っています。
旧札幌停車場 
この社屋は現在開拓の村のエントランス建物として再建されています。
北海道大学所蔵

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