「遠友」とは孔子の論語の有名な「遠方より友来たりなば、また楽しからずや」から名付けられたという。クリスチャンであった新渡戸の慈愛精神の実践であった。この遠友夜学校の精神は、貧乏からの脱却そして人間としての成就のためには何よりも「知る」ことこそ基本であることを貫いた。
この夜学校にはアブラハム・リンカーンの肖像画とともに、新渡戸が直筆で書いた有名なリンカーンの言葉「With malice toward none, With charity for all(何人にも悪意を抱かず、すべての人に慈愛を)」が掲げられていました。正規の教育機関とは認定されなかった。
1894 年(明治27 年)1 月、札幌に「遠友夜学校」を設立します。妻の実家エルキントン家はピューリタンの家系で、代々孤児の養育を続けていて、成長したお手伝いとなった孤児の女性が生涯の蓄積の遺産を、日本の萬里子へ送ったものだった。幼きマリーの育児に深く関わっていたという。そのような人の慈愛の連鎖が生み出した学校だった。その遺産一千ドルがメリーに贈られて、「遠友夜学校」設立資金となったのでした。これには、夫妻の亡き子どもへの思いも重なっています。
当時、豊平川畔にあった札幌独立教会の施設を買い取り、稲造自ら校長となり、無償の夜間学校を開設したのです。経済的に貧しい故に向学の芽を摘まれた青少年に勉学の場を私費を投じて設置したのでした。それを支えたのは、多くの農学校の教師や学生、クリスチャンの奉仕の精神でした。
「遠友夜学校」は、その名の通り昼間は働き、夜6 時から授業がはじまります。十代から三十代まで種々の生徒たちで、尋常科と高等科が置かれ、多いときは250 人もの生徒がいて活気に満ちていたといわれます。1897 年(明治30 年)稲造は体調を崩して札幌を去りますが、夜学校は、宮部金吾、大島金太郎、有島武郎らの校長代行によって引き継がれていきます。1923 年(大正12 年)には、財団法人に改め、施設・学校組織も充実します。1933 年(昭和8 年)~1938 年(昭和13 年)はメリー夫人が校長を務めています。
その後太平洋戦争の激化により、1944 年(昭和19 年)数人の教師と十数人の生徒だけで最後の卒業式を行い、この年3 月18 日ささやかな創立五十周年祝賀式典を行ったのが、「遠友夜学校」の終幕となりました。この、札幌の不幸な青少年たちに無料で開放された私立の夜学校は、明治・大正・昭和の50 年に亘り、初等部・中等部あわせて約1、200 名の卒業生を送り出しています。
<主な参考文献及び参考資料>
□「北大百年の百人」 北海タイムス社(昭和51 年8 月) 「新渡戸稲造」 さっぽろ文庫 34 □「遠友夜学校」さっぽろ文庫 18 □「農学校物語」さっぽろ文庫
それは今の創成川の東に
創成川イーストの中央区南4条東4丁目は、現在、新渡戸稲造記念公園となっています。この遠友夜学校の精神は、貧乏からの脱却そして人間としての成就のためには何よりも「知る」ことこそ基本であることを貫いた。この学校の生徒募集のビラには以下のことが掲げられていたという。「文盲への宣言」
一、 世界で一つの学校。これ程どんな人でも入れる学校はありません。
一、 社会事業団体として諸君の勉強に最大の誠意と関心を持っています。
一、 働きながら勉強できます。
一、 いくら歳をとっていても差し支えありません。
一、 男でも女でも構いません
一、 何時でも入れます。
一、 月謝は入りません。
一、 学用品はあげます。
一、 先生は諸君の友達です。
そして、「教師も、生徒も、共に夜学校へ夜学校へと引かれるのは何か。これ夜学校に満ち満ちた熱の力である。教える者の熱と教わっているも者の熱。それが互いに触れ合う時にはピタゴラスもいらぬ。プラトンも無用である。何者も焼き尽くさねば止まらない熱となり、これによって見るに足らない夜学校が、――目に見えない効果を挙げつつ、その特殊的存在を続けて来たのである」とこのクラークから新渡戸稲造へそして遠友夜学校へつながる系譜は戦前の日本にあって、リベラルな教育の重要な流れであった。
01年に札幌農学校を辞職した新渡戸は、39歳で台湾総督府の技師として赴任した。札幌農学校の卒業生の新渡戸稲造はサトウキビの品種改良、栽培、加工などの意見書である「糖業改良意見書」を児玉と後藤に提出した。そして、外国から台湾の風土にあった品種を導入し、在来種との切り替えを進め、栽培方法を改良した。さらに収穫期を異にする品種をそれぞれ栽培して、台湾の製糖工場が一年中稼働するようにした。新渡戸の台湾製糖業のへ貢献は現在、台湾高雄市の台湾糖業博物館で見ることができる。その博物館では、ビデオ解説と工場見学で当時の製糖産業の様子を学ぶことができる。ここには、奇美実業(チーメイ)の創業者である許文龍氏が制作した新渡戸像が2012年6月に設置され、台湾の糖業に尽くした功績を顕彰している。また、許氏は、新渡戸稲造記念館や盛岡市にも銅像を寄贈してその功績に報いている。