シャルル・ド・ゴール
ドゴール元仏国大統領は大戦時は英国に亡命して、レジスタンスとして、独国と闘った英雄と聞いています。昨今、櫻井よしこ氏の「祖国のために戦えるか」の議論が沸き起こっているが、祖国を蹂躙されたことがない若者には厳しすぎる問い掛けだと思う。ウクライナすら祖国から逃亡した腰抜けは少なくない。その腰抜けは非国民のレッテルを張り付ける者がいるかもしれないが、それらの者たちも決して愛国者とは言えないのではないだろうか。
トーベ・ヤンソン
まぁ、この様なことが書ける資格があるのかどうかわからないが、何とか今年もやっとの思いで、ここまでやってきた。今年は特に人との別れや出会いが思い出される。これも歳を重ねたせいなのかもしれない。「ちゃんとやる。」これは大事なことだ、来年の戒めとして、心に留めておくことにします。人に対する感謝と、誠実に生きていくことが人生の標と掲げよう。大いに反省すべきところもそこにあるような気がする。私自身、人様に生かされている以上に人様の役に立たねばなりません。自らを律し、自らを戒め、人生のアンカー役を果たしたい。
サン・テグジュペリ
自分のこれからを考えるならば、明らかに与えるべき自分は恥じるほどに小さく、受け取るべき時ははるかに遠すぎるだろう。それでも受け取っていただけるものがあるのなら、すべてを費やしても成すべきことなのだろうと想像はできる。たとえそれが打ち捨てられる程度のものであっても、自分にはそれに注ぎ込むエネルギーがある限りは挑戦していきたい。それが希望であり、生きがいなのかもしれない。失ってはならないもの。
カルビン・クーリッジ
カルビン・クーリッジ大統領についての認識は自分にはないが、彼は「必要以上の税を集めるのは合法的強盗である」との名言を残している。なるほどなぁーと思う。排日移民法の成立にも携わっているようだ。しかし、この時代の米国は文明的に輝きに満ちていたのかもしれなく、国民はそこで、其れを享受していたのかもしれない。レーガン元大統領も敬愛するほどに米国民と共に歩んだリーダーだったのかもしれない。日本の今はそんなリーダーが必要だが、その土壌はすでに失われ、それを贖うべき存在も皆無だ。ならばすべての老性を排除して、清い水の中にその生誕を待ち望みたい。
F・スコット・フィッツジェラルド
ここ一週間、多忙を極めた。自らがすべての原因で、何もかも引き受けてしまう悪き性格が出てしまった。それゆえに、それぞれに十分に対応できなかったのかもしれない。ゆとりの無いところに感動を生み出すことはできない。自らの価値を高めようとして、自らを貶めている。今後の大きな課題としなくてはならない。人のお話もよく伺って自らの蓄えとしなくてはならない。この年になっても、未だその未熟さに呆れてしまう。いきなりだが、台湾語の繁体字は美しいと思った。この一週間で最も感動したことである。李先生、ありがとうございました。忠実な美があることを知った。
伊達政宗
昨日コロナワクチンの接種をしたが、残念なことにその前に風邪をひいてしまった。体調の回復はかなり遅くなり、「正直、まいった!」最近のことをあまり書いてはいないが、職場の契約更新で、会社が変わってしまった。同じ職場で清掃業者も会社が変わったが、そこに働く人が入れ替わることは少ない。まぁ、それでなければ、雇用側も雇用される側も安心して働けないかもしれない。ただ、今度の契約期間は3年らしいので、自分としても一区切りとして見つめ直すことが出来るかもしれない。流石老齢には思うようには生きてはいけないものだ。
ベンジャミン・フランクリン
今年の夏はかなりやられた。内地の人から笑われそうだが、夜間も高温がこれほどに続くのには辟易した。しかし、老人力を使って、知らぬ振りもできるレベルではなく、仕事がこれほどきついと感じたのも久しぶりだ。暑い昼間の外で仕事をされている人たちが本当に気の毒に思った。だが、自分は温暖化などという単純な言葉には騙されはしない。地球が出来て以来これ程の高温など相当な時期あっただろうし、人間の記録の歴史など何のデーターにもなるはずがない。サンプリングの少ないNHKの世論調査のようなものである。来るべき爽やかな風の流れる秋を満喫しようではないか。
武者小路実篤
今年の夏は厳しい夏だった。いや、まだ終わっていないと言えるほどに今日も暑い。今朝、24時間勤務を終えて帰宅すると、去年までの夏がいかにお手柔らかに来ていたことに気が付き、さらにはこの札幌の街の環境に感謝すら覚える。おそらく内地では厭世的な気分にも落ち込むのも無理はないだろうと想像できます。人は真夏になれば、冬を恋しがり、厳しき真冬になれば真夏を恋しく思う。勝手と言えば勝手。その場その場で生きている生物のひとつなのだとつくづく思い知らされた。そんな今年の夏の日は未だ続いている。
山岡鉄舟
偉大で、普遍なるものには周囲の変化に影響されぬ美しさというものがあるということなのか。物質的な存在感だけではない人の魂に触れるような未知な力にこの山は「霊山」と称せられるのかもしれない。人は畏敬の念が沸き上がるほどに自らの極小さに気が付く。そこが昔から人にありがたみを与えているのかもしれません。そのような力を持つ人が現生にはいるのだろうか。そこを勘違いすると、カルトになってしまいますが、どうか、そのような人はさりげなく、存在していただきたいものです。
平櫛田中
夏の暑い時期はいつも「そろそろ、仕事をやめて、のんびりと隠居生活でもしたいな。」と思うことが多くなった。年を取った証拠である。この年で新たに仕事を得るのは並大抵の努力ではないでしょう。ボランティアならば別として、対価を得るような労働力を求められることもかなり少ない。現実を見失い、その場の感情で失業する事だけは要注意です。若い時だけの特権行為ですよね。あと数週間過ぎれば、この暑さも過去のものになって行きます。次に来るのは厳寒の冬に、またふと、「そろそろかな……」と誘惑される。
李白
今年の初夏は少し暑い。湿度も高く、雨も多い。植物たちにとっては良い環境なのかスクスクと育っているようだ。年寄りには少ししんどいかもしれない。7月21日より、大通公園でビアガーデンが始まる。さっぽろ夏まつりの最初のイベントだそうだ。夏の夜は家で涼しい窓から流れる風で、美味しいおかずでビールでも飲むのが一番の幸せである。人にも優しい夏の始まりであってほしい。あいにく、月も見えず、影もできないここではのんびりと、一人酒ではあるが、それもある意味気楽な一景である。
チャールズ・ウィリアム・エリオット
本というものから、しばらく遠ざかってしまった。忙しいと言い訳、読み始めると読み切らなけれ場と追いつめられる。これでは愛読家にはなれない。いつかゆっくりとじっくりと、読書を楽しみたいと思うのだが、暇があると外へ出かけたくなる。旅に本を持ち込む人も少なくないようだが、なぜかそれが時間の使い方を惜しむような気がしてならないのだ。だが、それでいて、決して自分が充実した時間を過ごしているわけではない。要は、性格に落ち着きがないのである。ひと月に数十冊読んでいた子供時代の自分の方が今よりは落ち着いていたようである。
オリヴァー・ゴールドスミス
ここまでに出会った人生の道は荒れ放題。宿は場末のボロ寝所。なんということだろう。1か月以上、ここに書き込みをしなかった。これこそが、荒れ道の、ボロ寝所のの原因なのだろう。道や宿を恨む前に、己自信を恨み、憐れむべきなのだろう。まぁ、ボロでも纏えば暖かい。荒れ道は私の足には優しいのかもしれない。今日から高速道路で、豪華ホテルと来られても、こっちの身の置き場が無いのである。私には私に向いた道や、宿がある。
武者小路実篤
いよいよ、5月も終わり、初夏の6月となると思えば、あの厳寒の季節とは真逆の体力的試練がやってくるのです。高齢者にとっては年々厳しく、特に仕事を得ている身にとっては、一つの心配事になる。何しろ、人様にご迷惑を掛けることになることを恐れる。今月は6回目のコロナウィルスのワクチン接種をしていただいた。こんな心配をしているのだが、同行案内の応募はやめられない。まぁ、いざとなれば、代役は山ほどいるのです。まことに心強いボランティア活動です。
司馬遼太郎
そのようなことで言うならば、今年は家にいる時間が長いのかもしれません。昨年の方があちこちへ出かけて活動的だったかもしれない。今年の方が温暖で、動くには都合が良い分、いつでも行けるような甘い考えが増えたのかもしれません。一年で老化的思考が増えたとは思いたくはありませんが、それを打ち消すためにも、来るべき6月は少し腰を上げる機会を増やそうと思います。やらなければならないのではなく、自ら楽しむ人生でなくてはならないと思います。しんどいというよりは楽しいと思いましょう。
アインシュタイン
しばらく日記をさぼってしまった。日記を几帳面に毎日書き続けることのできるのは一つの能力かもしれません。性格もありますね。その点では、私は几帳面ではなく、いい加減な性格です。生きていくうえでこれは欠点のように見えますが、今まで長い人生を生きてきた中で、息継ぎ息継ぎで生きていくよりは息抜き息抜きで生きていく方が楽だったのだと思います。いつか体力も気力も失せて、自転車を投げ出すところが人生の最終地点でしょう。アインシュタイン先生、実は私、自転車にもともと乗れません。
ドストエフスキー
不思議なことに家畜には自分の運命は理解できないかもしれないが、同じように人の人生もそれほど変わらないのかもしれない。だが人間には、人間であるが故に、恐ろしい運命が待っていることもあります。それほど家畜と変わらない人生を送れるのが幸せなのかもしれません。誰かの意地や思い込みによって自分の運命を狂わされている人たちがこの世界に入るのが現実です。だが、若者には自分の運命を変えることのできる大きな可能性を持っています。
トマス・マートン
気持ちを整え直すときは、沈黙の時間を十二部にとる必要があります。そこから生まれてくるものが絶望の人もいれば、希望の人もいます。なぜ、そこで別れるのかは、ある程度人生を過ごしてきた自分には、少しだけわかるような気がする。絶望に向かう人には将来に対する不安があるのだ。将来のない老人は絶望などしている時間はない。ならば、希望に向かうしかないのである。できるだけ、希望しようじゃないか。最後の希望だよ。
ポール・クリセロー
基本は大事だが、できやすい基本と達成が難しい基本があるのも事実であり、その現実にみな苦しんでいるのだ。経済アナリストのクリセロー先生なら、必要なものが潤沢にあれば、人が争って稼ぎまくることもなく、穏やかな人生を送ることが出来るのかもしれない。否、必要以上の者を求める側にも問題があるなら、解明すればよいと思うが、それをやってしまうと、困る人もたくさん出てくるようで、誰もがその人かもしれません。
斎藤茂太
なるほど、人生を重ねることの重みが伝わるとともに、斯くあらぬことを胸にすべきと思い知らされます。若い時より仕事の責任は小さくなって行くものですが、人としての自らの器、度量の責任ははるかに重くなるものですね。それは人様からは常に求められなくとも、いざとなっても常に備わっていなければならない。元雄しっかり勉強して、さらに自らを磨きこまなければなりません。斎藤先生、ありがとうございます。
昭和天皇
これは「天皇の料理人」より裕仁天皇が、出されたお料理について、秋山料理長に語ったと言われた言葉だそうです。お人柄のやさしさの伝わるエピソードであります。おそらくは来賓を迎えて宴会後に料理の阻喪にあったのでしょうが、天皇は自らが主催者の立場を重く捉えられている様子が伺え、一日本国民として、神戸の垂れる思いがします。もうすぐ、嘗ての天皇誕生日が来ます。
南光坊天海
この人は徳川家に仕え、108歳まで生きた人と言われているようで、それとなく家康とは息が合いそうなことを言っています。これは自分もそうですが、余命いくばくもない者には容易いことを言ってはいるが、若い人が言われたらニコニコ聴いていられるようなお話ではないですよね。年寄りというのは時々このような無茶なこと言いだしては若い人を閉口させてしまう。こうなると、相手にもされなく、年寄り同士で、若者の不出来を語り合っているのである。困るね。
論語
春になるなら、北の人はこの年の始まりと信ずる人もいるかもしれない。冬がすべてを、自らを停止させていると感じるならば、春こそがリスタートの時なのかもしれない。北に住む人の感覚としては理解を得られるのかもしれない。されど、その終焉も雪降る頃に訪れる。まことに短い。否、短すぎるだろう。だからこそ、北に生きることは冬に生きることなのだ。もうすぐ、今年も4か月を過ぎようとしている。春を楽しむにも忙しい。
セント・オブ・ウーマン
今の大人たちに大人として若い大人に示すべき大人としての資質が見受けられないのは、私自身の大人としての力量に欠けているからなのかもしれない。在り様というものを知らな過ぎているのかもしれない。それは決してこの国が無宗教的国家だからというのは言い訳にもならない。自分の経験でこのように思うのはあまりに顰蹙を買ってしまうかもしれないが、少子化が進んだ社会の一つの症状なのかもしれない。決して個人の責任ではない。取り組むべきは社会であり、個人である。
ジャワハルラール・ネルー
札幌の藻岩山のロープウェーで登ると、途中に白い大きな慰霊のドームが目に入ってきます。戦後まもなくインドのネール首相が日本の戦没者のために送ってくれたものと聞いています。日本各地の閉鎖されていた動物園に像を送ってくれました。世界から敗戦によって大きな非難の嵐にあった日本に温かい手を差し伸べていただいた気持ちを日本人は決して忘れることはないだろう。それが今も続いているインドの人たちの真の友情であることは間違いがないのです。
論語
中国にはこのように立派な文化の集積があるのに、どうして共産主義国家と成り果てたのだろうか。国民の貧しさは経済的な貧しさだけではないだろう。文化的な裕福さはそれを超越することはかなり難しいのだろう。われらが学ぶべきはその心をそのまま受け入れる寛容さを養うことだと思います。日本や欧米が世界恐慌に苦しんだ時代にそれに憧れた時代もあったようだが、今は微塵もないのだ。これはその時代の文化ではない。
ジョン・G・シェッド
今朝、北海道にJアラートが発信された。北朝鮮からのミサイルということらしいが、結局は問題はなかったようです。この国が危うくなっているのは隣国の軍事化というよりは、国内における戦後まもなく起こった反軍事思想に取憑かれた誤った安全神話なのかもしれない。米国との軍事同盟こそが如何にも徴用されねばならないのではなく、自らの平和・防衛・安全保障を考える力を失わせる力こそ排除されなければ未来ある子供たち江尾護ることはできない。
エイブラハム・リンカーン
最近、少々お疲れ気味です。時間とともに老化速度が高速化しているのか?と、思うほどに我が身の終点が近づいている実感を覚えるのは、錯覚ではない。おそらくは、脳による思考が途切れ途切れになるほど老化による中抜けが増えてるんじゃないかと思ってしまいます。数億年前に絶滅したアンモナイトと現代のオウムガイは先祖は同じでも全く別の種類らいいです。環境が生物の形態を決定しているのなら、人間の長生きと老化、これも環境の産物なのかもしれない。
立花隆
蓄積だけではなく、形成されなければ、言い換えるならば、熟知しつくしてこそのアウトプットなのだということなのでしょう。これは厳しい指摘であります。私などは情報集積が最終目的のようなことが多すぎるかもしれません。聞いていれば、熟知したように勘違いをしてしまいます。それはおそらく間違えた解釈の上での間違えたアウトプットを生み出しているのかもしれません。それを聞かされる方たちには大いなる迷惑以外の何物でもありません。
島崎藤村
しばらくここにもあまり立ち入ることが少なくなっていました。まぁ、忙しいというのは完全に言い訳になってしまいますが、ゆとりがなくなるということは忙しいという心境に襲われたのだと思います。エスコンフィールドに出かけたりして、楽しい時間を過ごしもしました。商工会議所の観光ボランティアの会が解散したり、寂しいことになりましたが、私以外の皆さんが決起して頑張っておられるのを見ていると、まことに恥ずかしい思いに突き立てられる思いがします。
トーマス・フラー
見栄を張るにはお金がかかる。これは世界の常識で、誰でもほとんどの人が分かっている。分かってはいるがついつい、そのトラップにひっかっている。いやむしろわざとトラップに飛び込んでいき、「まいったなぁ~。」とかとぼけている。もうこのようになってしまうと、傍から眺めているのが一番である。それも一つのゆとりなのです。それに悩まされていることを喜んでいるだけです。
西條八十
愛染かつらは当時の日本で総統にはやった恋愛ドラマのようですが、その主題歌でしょうか「旅の夜風」が流れていた記憶は今でもはっきりと持ち堪えているようです。そのころの世情は貧しさの中でも文化をたたえる意識が強かったのか、依るべき処がそこにしかなかったのかはわからないが、今、失いつつあるこの国の風情であるのかもしれません。いつか自分も声を失う時が来るかもしれません。
茨木のり子
人生の旅路の果てに。いずれ皆朽ち果てて行くのだろうが、その日までは夢だけでも持ち続け、明日を見ていたいものです。恐れるはそれを忘れることではないでしょうか。茨木さんは「感受性を失うのは、その人の責任である。」とも厳しく窘めています。自分に優し、更にそれ以上に自分に厳しくあらねばならないと、改めて思います。いつまでも旅する夢追い人でありたいと思います。
ウィンストン・チャーチル
右に転写した狸小路にある美容院さん。いつも気になるお店です。遠い昔に連れて行かれそうになる雰囲気は、御店主の趣味とは言え、あまりに文学的であり、抒情的ではないだろうか。時代が移り変わり、この商店街にも新たな風が吹いてはいても、まだ、そこに微睡む懐かしき美があることに感謝の気持ちが沸き上がります。いつまでも、ありがとうございます。
武者小路実篤
冬の人に対する精神的影響の大きさは誰もが感じていると思います。冬大好きな人にとってはそれは歓喜の季節ですが、楽しめない人には憂鬱な時間に襲われ続けることとなり、たいへんお気の毒な状態に陥る人も出て来ます。これはこの地域の責任として真剣に取り組むべき事案ではないかと以前から思っています。イベントは増えたがそれは主催者の頑張りであり、当人が頑張れる機会を与えることが重要なのだと思います。
チヌア・アチェベ
最近の国の指導者の言動を見ていると品性がないと言われても仕方のないような事態が繰り返され、子供達にもそれを目指す意欲を失わせている。過去から同じことの繰り返しであると言う種等もあるかもしれないが、それでは成長がないという事だろう。大人の議論は品性を持て、相手に敬意を示しつつユーモアも含めて厳しく論壇を重ねることではないのか。
孔子
この様に立派な生き方が出来なかったとしても、こうして生きていられるのは、本当に幸運だけなのだろうか。周りの多くの人たちが私を生かしてくれたのだとしか、今はそれしか思えない。これからの老僕がたどり着く人生は、そんな周りの人たちの様な人に声が掛けられる人生でありたい。それが出来るようになるには、自分にはもう少しだけ時間が必要かもしれない。それが私のこれからの人生である。
アミット・カランツリー
今年の冬もそろそろ、先が見えてきたようで、安堵できる時期が近づいている。わずかな数か月の冬でも、実際に住んでいる人間にとっては相当のストレスになっている。ましてや今年はエネルギー関連を先頭に値上がりが酷い。大衆に諦めの心境が拡がれば、それに乗っかる連中も必ず出てくるものだ。それに鉄槌を下せるのも民衆であることを忘れてはならない。この様に自由と民主主義が危ういとしても、現代では社会主義も共産主義も入り込む隙はあるまい。
アンデルセン
いかなる境遇にあろうとも、自らの出自を突き止め、その誇りを失わぬことこそ、人の生きる道筋である。それは決して過去によって操られているのではありません。その誇りを真に感じとれる者にこそ理解出ている感覚なのかもしれない。白鳥が美しくアヒルが醜いという事ではありません。アヒルにはアヒルの誇りがあるという事です。互いに理解しあわなくても良い事なのです。
セオドア・ルーズベルト
古い昭和の残像 多くの映像の中に見られる 人々の笑顔の輪は今の私たちには 重ならぬ幸せですか?すべては消え去った価値観の中のその子でしか存在できない幸福感がその時代には存在したのだろう。自分もその片鱗だけをわずかに覚えている気がするが、残像とは自分の中では恐らくその時よりは遥かに美しく描かれているのは誰も同じであろう。懐かしさの切なさはその美しさの中に埋没されて行くのだろう。
ヒルティ
幸福はその姿を見せ始める時人はその幸福感に満たされると同時に、それが消え去る時の恐怖に襲われる。それ故にその幸福に飛び込んでいく勇気を失ってしまうのかもしれない。幸福は一瞥をくれて半笑いで去っていくのだ。残された人は哀しみと言うよりはむしろ、安堵を得るのかもしれな。また新たな幸せを求めて、自分の不幸を呪いながら、平常の中に埋没していくのかもしれません。
オードリー・ヘップバーン
小樽雪灯りの路を初めて見に行ってきました。大変な大雪は自分の日ごろの行いでしょうが、ある程度期待したものと足りないものもありましたが、市民の手作りイベントで多くの人達が集まれる力強さを感じました。今後さらに小樽の街中が輝くイベントになれば、札幌の雪まつり以上のお祭りになるような気がします。台湾の若い人たちも参加していました。素晴らしいですね。
菜根譚
雪まつりが終わると、札幌の街はまた、一歩、春に近づいて行きます。同じ寒さ、同じ積雪量で、同じ日照時間でも冬の始まりとは全く違う。この感覚は、人間だけのものではないのだろうと思います。先の見えないものと闘う人たちがいるこの世界では、人間のみが進化できないのではないかと疑ってしまいます。それでもそのような者にも春は平等に来て、同じような喜びを感じます。平和や自由を平等に分かち合うよう祈る。
伊達政宗
毎日の食事があまりおいしくないと言うのは、たいへんお気の毒な事だと思いますが、態度や言葉で、美味しさを表現できる人はきっとその家庭を明るくできる人なのだろうと思いますし、大事なことを知っているのだろう。この老僕はそのような相手がいないから、そこまで考えてはいないが、外食ではその辺は気をつけるようにすることにしましょう。たとえ一期一会であっても。
太宰治
太宰先生の時代の友との別れは、今生の別れに思えるほどの遠隔感に捕らわれたのかもしれない。今の時代は世界のどこにいようとも、スマホを「ホイッ!」と出せばほとんどその寂寥感を消し去ることはできる。我々老僕は、未だにその捕縛から逃れているとは言えず、被災ブリの友と差異化の別れには、「これが最後かもしれない。」などと思う時期が近づいている。
マザー・テレサ
帰る家もあり、帰って食べるものがあり、そして、ゆっくりできる寝床がある。これほど幸せなことがるだろうか。人に飼われている動物たちを見る時、それを哀れに思う時もあるけど、それはそれで、彼らにとっては幸せな事なのかもしれません。この世には一クズのパンにも飢えている子供たちがいて、それ以上に愛を受けていない子供達もいます。どうか彼らの未来に変化を。
ピタゴラス
現代のどこかの世界で、怒りに任せて、自分の力を誇示しようとして、世界から背を向けられてる国家リーダーがいるようです。彼の怒りはその国民の怒りの程度を超え過ぎていて、バランスが可笑しくなっているので、遂行が困難に陥っているのかもしれません。逆に国民の怒りが勝って国家のリーダーが危うくなるようなこともありうるのがこの世界なのかもしれません。しかしこの時、国民の存在感があることを忘れてはなりません。国民が自らを律することが出来れば、国は安泰なのだと思います。
織田 信長
昨日の大河ドラマで織田信長が徳川家康に平手を喰らわせ、人を束ねる者への苦言を示した。「仇も情けも我が身より出る。」と、思慮も無く物事を軽く決める事が戦乱の世を生きる術を弁えない若い家康に大きな影響を本当に与えたとは思わないが、脚本としては人との契りは面白く描けているように思いました。この様な人とのめぐり逢いがあれば、人生にはかなりの彩があるのだろう。
バルザック
あまり立派な人生を送っていない後ろめたさもあるのかもしれないが、少なくとも、いつからかは知らないが自分なりは精一杯やっていると思うし、そのように信じたい。昨日間違ったことをしても、今こそしっかりとして人生を歩み始められれば良しとしたい。甘いかもしれないが、老僕であります。老僕には、老僕として生き方がある。
トーマス・ジェファーソン
この国は一見穏やかに見えるが、決して自らを律しているようには見えない。本当に真の民主主義国家と言う国はあるのだろうか?ひょっとすると立憲君主国家の方がより平和な国家に見える時があるかもしれない。それは君主が国民にとって尊い存在である場合だけあるが、その君主を取り巻く側近にもその高貴でその君主を敬愛する心が無くてはならない。人間にはそのような犠牲的な支配者が必要な時もあるのかもしれない。
孫思邈
今年から日記形式にしようと思い始めたらいきなり、三日坊主になりそうなるとは、三つ子の魂百までもか!今年は雪は少なめではあるが、寒さはそれなりに厳しく、老僕には辛い。それでも、まだ、出かけようとする気力があるだけ、気持ちは老けてはいない。しかし、眠気が強くなっていることは要注意かも知れない。これは脳みそに血流が回っていない症状である。ワインでも補充するかな。少し違うかWWW
小野田寛郎
小野田寛郎さん、他に横井正一さんとかも覚えていますが、終戦後も南方のジャングル地帯で生き抜いて帰国することが出来た、ある意味戦争被害者でしたね。教育と言うものは本当に恐ろしいものだと分かる実例ですが、このことを教訓にしてきたと言えるのかはどうなんでしょうかね。本当の意味で生き抜くという事が何なのかをこの社会は理解できているのだろうか?小野田さんが一番そのことに気がついた人だったんだけどね。
山本常朝
人との関わり合いもまた同じく、はじめより仔細に至れば、危うくなるのは常なるか。上のものは危うからざるところを思い仔細に至るも、下の者からすれば、仔細、五月蠅き事に感じ、疎ましく思うは必定。なかなか、関りの始まりは互いの心情に至らざれば、その能によるところは大きいのかもしれず、能ある者にはそこまで測るのか、あるいは能なく、天真爛漫これあるのが良いのか。
ボードレール
最近は酒の量が増えたかもしれない。月の半分は夜間勤務だから、残りの半分が晩酌させていただいているという事だろうか。しかも最近、滅茶苦茶安いワインが出てきて、しかもサッポロビールなどがそこに参戦していることで、練度が高いなぁーと思えるほど美味しいワインで、びっくりしました。これからはビールとワインと半分づつになりそうな気がします。ありがたや、ありがたや。
ドワイト・アイゼンハワー
ここまでの年齢ともなれば、それは、歳を重ねる事でもなく、何を積み上げて来たのかという事でもあります。この人は楽観論者で、それなくしては軍人としては生きてはいけないことも語っている。人生を戦争だと捉えれば、我々老僕は常に楽観者でなくてはならない。たとえ猛吹雪の闇の中で、身体を支えるその愛用の杖を折っても、笑い続けなければならない。それには積み上げて来たものこそ重要である。
クーリッジ大統領
明治39(1906)年、サンフランシスコ大地震(死者700人)が発生した際、日本人の間から多額の義援金が米国に送られた。
当事、アメリカでは排日論が叫ばれていた時代であったので、敵対する「日本」からの温かい支援に米国民は大いに感銘を受けた。17年後、関東大震災の報に接したクーリッジ大統領(John Calvin Coolidge)は、官民あげて日本に対しいち早い援助と救援の手を差し伸べ恩返しをした。(原文)
司馬遼太郎
これは、阪神淡路大震災の時の司馬さんの取材時の話です。普段は見知らぬ人同士が、互いの危機に直面した時だけに通じる事の出来る気持ちの表れなのだと思いますが、それに触れる事の幸せは、不幸な立場にある時だけしか味わえないのだ。小さなことではあるが、現在札幌は久しぶりの大量の降雪に見舞われている。戸外の駐車場で、普段挨拶もしない人たちが、声かけあって、除雪に汗をかいてる。不幸と言うか、不運に逢えば、人のやさしさを手繰ろうとするのかもしれませんね。
オッペンハイム
今年は、小樽の雪灯りの路に出掛けたいなと思います。恐らく、札幌よりも寒さも雪も厳しいと思いますが、冬であるから見ておきたい風景があると思います。最近年齢による、身体の負担を感じる事が少なくないような気がしていますが、それも運命と思い、周りの人に迷惑をかけないように逝きたいと思います。小樽はまだまだ、見切れていない場所が沢山あると思います。今年のひとつの課題に出来ればよいなと思って、頑張ります。
スコット・フィッツジェラルド
何とか、風邪は誤魔化せたような気がする。今年は雪は岩見沢方面が多く、札幌は少ないようだが、寒さに関しては冬らしい寒さで、路面はテカテカ状態で、老僕にはきつい冬です。今日から札幌はどうやら、日の出が早くなり始めるらしい。この様に思う時、大陰暦と言うのはいかにも季節に即した決め事だと思うが、農業には向かない暦であると言うらしい。年によっては閏月と言うものが発生してしまうらしいのがその理由らしいのですが、旧暦の正月は春に近いので、新春と呼べるのには良いかもしれませんね。
マザー・テレサ
風邪をひきかけている。この冬2回目の危機である。1回目は速攻で市販薬で何とかなった。今度もできれば、それで治したい。薬を飲んで、ゆっくり休養をとれば、何とかなるのか?根拠のない話だが、人間は昔からそう信じている人も少なくない。日本の薬学は素晴らしい。クリニックで、処方してもらえば、魔法のようにたちまち効果を表してくれるだろう。高価な市販薬を買うなら、クリニックで、安いジェネリック薬を処方してもらう方が賢明であるかもしれないが、クリニックの待合室が苦手である。
武者小路実篤
狸小路も昔に比べると、随分と変わったもんだ。まぁ、街中と言うものはそういうもので当たり前だろう。変化のない繁華街などはその地域自体が衰退していると言うことかもしれない。この小路は昔は映画館とパチンコや、おばちゃんのデパート「金市館」楽器レコード店、喫茶店や若い人が結構行き交っていた記憶がある。観光客よりは地場のお客さんが多かったよ。公然と、詰め将棋の賭け師がいたり、それなりの風情が狸小路の風景だったよ。今は外国人が目立つね。
ゲーテ
あなたの人生が始まったようにと言われても、その時の記憶は誰にもないのではないかな。と思う。ごめんなさいゲーテさん、上げ足取るつもりはありません。多分そのころは意識なくても必死に生きれたのだと思います。歳を重ねるたびに生きることの意味を考え始めた時こそ、人生なのだと思います。それは軽くはありません。他人に依れば重圧と感じる人もいますが、明日を生きれない人にとっては愚かな考えだとは知っている。重圧と感じないようにアホのふりして生きてみよう。
ゲーテ
元旦より、日記形式になるかどうかわかりませんが、ページも改め始めたいと思います。雪が僅かにチラつき気温が0℃付近で、少しだけ陽射しも出て来た。昨年もコロナで、家でいろいろ暇つぶしに掃除などをやっていたのが居心地の良い環境が出来たのか、帰巣本能が上がったような気がしました。今年も近隣を撮影する小旅行を重ねて、健康な1年を過ごすことが出来れば、幸いであると思います。世界が平和になることを祈っています。