小 樽 駅
小樽駅のお隣「三角市場」
やはり、観光客のお客様が大変多く来店されているようで、地元の人は完全に負けています。飲食のコーナーがかなり充実していて、食堂には行列が出来ています。インバウンドの情報通にもいきわたているので、市場のスタッフも対応に成れているように感じました。お昼などは時間を少しずらされたほうが落ち着いて食事できそうですね。
小樽雪あかりの路25
1999年から始まった「小樽雪あかりの路」に初めて行きました。運河プラザで、運がっぱちゃんにも会ってしまった。帰りはこんなジィちゃんにも手を振ってくれて、礼儀正しい。大雪で、撮影も大変でしたけど、台湾からのチームもボランティアで頑張っていました。もっと、こんなキャンドルで飾られた小樽の街中を見て歩きたかった。来年もまた来ようと思います。
頑張れー小樽! 今週いっぱいまでですね。応援してます。
小樽市総合博物館
小樽に行ってみましょう(^^♪
海の無い日本の唯一の五大都市札幌に住んでいて、小樽の海を見に来ると、海は本当にいいなぁ~と思う。「ジィちゃんは住んでないからそんな呑気に言えるだ!」と言われそうだけど、ヤッパいいものはいいよ。思わず釣りをしている知らないオジサンにも気軽に声をかけることが出来ます。1880年(明治13年)、北海道初の鉄道会社「官営幌内鉄道」として、手宮駅~札幌駅間(約35.9km)が開業しました。この時に、導入された蒸気機関車は、アメリカのH.K.ポーター社が製造した7100形蒸気機関車(SL)2両で「義経号」「弁慶号」と名前がつけられました。明治14年の明治天皇の北海道行幸でもお召列車で、札幌に行かれたそうです。ジィちゃんは鉄オタじゃないから詳しくはないけど、うちのおじぃさんは国鉄で車掌専務の仕事をしていたから、鉄道は子供時代から身近に感じています。特に子供時代はSL蒸気機関車が主流だった。毎日のように見に行っていました。ここには札幌農学校卒業の天才児廣井勇がその土木技術を見事に表現した。1897(明治30)年より始まった小樽築港工事がある。北海道の玄関口として安全に機能させるために、堅牢な防波堤を築く必要があった。廣井は「斜塊ブロック」という独特な工法を採用することで解決。11年という歳月をかけおよそ1,300mの北防波堤が完成した。
お勧めの小樽市総合博物館
小樽に出掛けて、一度行くと、虜になるような博物館です。特に鉄道と、ジオラマ好きにはたまりませんね。小樽はご存知の通り札幌が現在の状態になるまでは北海道では、戦前は函館に次ぐ大きな都市でありました。しかもその影響は戦後のある時期まで続き、その資産の大きさは街に多く残る歴史ある建築物に見ることが出来ます。古くから商売をやっていた方などはよくご存じでしょうが、良いものを店に並べようと思うときは、札幌の問屋よりは小樽の問屋さんの蔵に出掛けると納得できるものに出会うことが出来たものです。それは札幌街のデパートでも見つけられないものであったりします。それほどに繁栄が小樽の街にはあり、その高貴な雰囲気は今でも残り香の様に街を包んでいるのです。その繁栄を生み出した小樽の港と、幌内鉄道です。小樽を観光するには坂が多くて大変ですが、歩かなければなりません。道端にある貴重な歴史的な財産を見る機会を失う可能性がありますよ。じっくりと、ゆっくりと、何度でも楽しめるのが、小樽観光の基本かも知れません。。
7100形蒸気機関車7106「しづか号」
鉄道 150年 2022年
営業時間 | 9:30~17:00 |
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火曜日(祝日の場合は翌平日)、年末年始(12月29日~1月3日)
駐車場 あり(無料)
アクセス
小樽駅前バスターミナル3番のりばから高島3丁目経由小樽水族館行き(系統番号10番)に乗車。「総合博物館」で下車
樽石ビル前バス停「小樽駅前」から、高島3丁目行き(系統番号2番)に乗車。「総合博物館」で下車
2024年3月25日に、小樽観光の新たな拠点となる施設が完成。小樽駅前から直線上に位置し、小樽運河やクルーズ客船の発着埠頭も近くアクセスも便利。
1階は観光案内所と、小樽後志と北海道の特産品を取りそろえる物産店「ポートマルシェotarue」が入ります。2階はオープンテラスとなり、小樽の潮風を感じながらくつろげます。
下記四つの要望を、建物の所有権を持つ小樽市に署名とともに提出したいと思います。(運河プラザ閉鎖反対のための署名ではありません。)
1.修繕と並行して、現小樽運河プラザ1番庫を、これまで通り、市民も観光客も利用できるようにしていただきたい。
2. 修繕と並行して、現小樽運河プラザ3番庫を、イベント開催の場所として今まで通り使用できるようにしていただきたい。
3.修繕と並行して、中庭についても、引き続き市民も観光客も利用できるようにしていただきたい。
4.改修中、観光繁忙期に現運河プラザを使用できないのは、観光都市小樽としては大きな損失である。また、夏の猛暑による観光客の熱中症対策等も兼ねて、ゴールデンウイーク、おたる潮まつり、お盆期間は、トイレや休憩スペースを開放して欲しい。
また、可能であれば、キッチンカーや臨時案内所の開設をしていただきたい。
小樽国際インフォメーションセンター
営業時間 全日9:00~19:30
住 所 北海道小樽市港町5番3号
3月25日にリニューアルオープンする観光案内所です。観光案内のほか、併設するポートマルシェotarue(オタルエ)は、小樽後志地域の多種多様な特産品や北海道を代表する銘菓も揃える店舗となっており、国内外の観光客の皆さまが気軽に立ち寄っていただけるよう賑わいづくりに努めます。
小樽 日和見灯台
<木下恵介監督>
『喜びも悲しみも幾年月』 1957(昭和32)年 松竹1957 (昭32)年キネマ旬報ベストテン 第3位 1965年テレビドラマ化されています。
明治16年、木造灯台として昭和28年の現在の鉄筋コンクリート造灯台まで歴史遺産としての存在しています。JR小樽駅より中央バスの路線バスが出ており、所要時間は20分前後かと思われ、近隣には小樽水族館、鰊御殿「白鳥邸」などがあります。館内は年間1,2度の開放がされようですが、一般には敷地内開放が冬季以外の期間されています。但し、学習用に学童生徒用に海上保安庁に問い合わせの上、見学なども行われているようです。灯台としては現在も現役として役割を果たしており、灯火は35㎞に及ぶそうです。霧笛は既に撤去されており、その役目は衛星によるGPSに担われているとのことです。近海にはトド岩もあり冬下には多くのトドが見られ、春には沿岸に鰊による群来も見られるようなったとのことです。当日は天候があまりよくはなかったのですが、遠く、石狩湾の奥に札幌市の高層建築群を望むことが出来ました。
1. 観音埼灯台 – 三浦半島・神奈川県/ 1932(昭和7)年―上海事変勃発
2. 石狩灯台 – 石狩・北海道/1933(昭和8)年頃 ― 雪野・光太郎の生誕
3. 伊豆大島灯台 – 伊豆大島・東京都/1937(昭和12)年―日中戦争勃発
4. 水子島灯台 – 豊後水道・大分県
5. 女島灯台 – 五島列島・長崎県
6. 弾埼灯台 – 佐渡島・新潟県/1941(昭和16)年―太平洋戦争勃発
7.10. 御前埼灯台 – 御前崎・静岡県/1945(昭和20)年―太平洋戦争終結・日本敗戦/1955(昭和30)年― 四郎、灯台長として着任
8. 安乗埼灯台 – 志摩・三重県/1950(昭和25)年
9. 男木島灯台 – 瀬戸内海・香川県/1954(昭和29)年
11. 日和山灯台 – 小樽市祝津・北海道/1987(昭和32)年
ニシン漁の盛衰
開拓使は1869(明治2)年12月、白鳥喜四郎に高島郡の内鰊漁場並びに漁具を1100両で斥売とあるように、その独立の基盤が整備されます。そして1874(明治7)年、余市場所請負人林長左衛門の祝津出張漁場の支配人であった金永作を養子に迎え、白鳥永作が誕生します。永作32歳、茨木与八郎と同年です。明治10年ころ白鳥永作は番屋(現群来陣)を建設し、1878(明治11)年、白鳥喜四郎は鱈肝油を製造し、永作も1878(明治11)年12月、鱈肝油の製造を開始し、白鳥漁場はこの年建網6ヶ統を経営するまでになります。祝津という地名は北海道が蝦夷地と呼ばれていた時代、シクヅシというアイヌの呼び名でした。和人がこの呼び名を使用するのは、小樽の語源となったオタルナイよりも早いといわれています。「おたる水族館」もかつては祝津水族館と呼ばれた時代もあったんだよ。
そしてニシンの「場所」(松前藩が和人に漁業権を認めた地区)としてオタルナイ場所・シクヅシ場所と並列されますが、シクヅシ場所は1789~1800(寛政年間)にタカシマ場所に改称されています。そして同時期、「タカシマ場所 請負人 住吉屋助市 支配人 喜左衛門」(『小樽市史第1巻』「西蝦夷日記」)が示すように、住吉屋は近江商人西川伝右衛門と思われることから場所請負人(商人に漁場管理を委託する松前藩の制度)となって管理していたことがうかがえます。
しかし、明治2年に開拓使が設置され、場所請負制が廃止され、西川家の独占が解除されたため、以後に御三家が台頭する漁場地域になっていきます。しかし御三家の一人白鳥家が大正期に不振になるように、大正後期を機にニシン漁は不安定になっていき、昭和30年前後を境に全く小樽には押し寄せてこなくなります。こうしてニシンを資源として和人集落が形成され、漁業・水産加工業などが集積された地域が解体され、代替産業が興ることなく、漁業・水産加工業の多くが撤退し、産業によって集積された歴史的建造物も放置・解体されていきます。
旧寿原邸
旧寿原邸は、大正元年(1912年)に雑穀商で財をなした(小豆将軍といわれた)高橋直治が建て、その後、小樽を代表する実業家寿原家の邸宅となった建物です。
2022年度もNPO法人小樽民家再生プロジェクトでは、
小樽市より委託を受けて、『旧寿原邸』の管理、運営をすることとなりました。
旧寿原邸2023年一般開放とイベントのご案内 4/29〜10/9
2022年度もNPO法人小樽民家再生プロジェクトでは、
小樽市より委託を受けて、『旧寿原邸』の管理、運営をすることとなりました。
大正元年に「小豆将軍」として有名な高橋直治によって建てられ、昭和9年に寿原外吉の所有となり、昭和61年に市に寄贈され、 平成3年に小樽市指定歴史的建造物となっています。
4/29から土日祝のみ無料にて一般開放をします。
売店の売上は、旧寿原邸の維持管理に使われます。
各種イベントもありますので、ご予約の上、ご参加ください!
■イベント申込フォームからもお申込いただけます。
旧寿原邸イベント申込フォーム
歴史の香りを醸し出す街並み
小樽の駅前を余市方面に進むと間もなく、龍宮神社への入口に至ります。梁川通りという名前は、この一帯(稲穂町)を所有していた、その榎本武揚の雅号の梁川(りょうせん)に由来するそうです。だが時代は榎本を求め、ロシアとの外交や、逓信大臣として中央で活躍していく中で、小樽に寄贈する事になった。小樽を愛していたのですね。
龍宮神社(りゅうぐうじんじゃ)は、北海道小樽市稲穂に鎮座する神社である。 旧社格は郷社 。 住 所 北海道小樽市稲穂3丁目22−11 電話番号 0134-22-4268 FAX 0134-31-5888 小樽JR駅から余市方向に徒歩で約5分ほどです。 |
龍宮神社 榎本武揚
幕末の幕臣の中で小栗上野介と共に天才であり、人気のある徳川家旗本として、海軍伝習のためオランダへ留学した。海軍技術を学ぶとともに、オランダに発注した軍艦(開陽丸)の造船監督や、造船技術の見学研究を行った。 西周らとともに国際法を学んだ。国際法はフランス人の国際法学者オルトラン著オランダ語訳『万国海律全書』は、後に、榎本が日本に持ち帰り常に愛読していたものである。なお、留学期間中に、オーストリア・プロシア連合軍とデンマークの戦争に、国際観戦武官として従軍し、近代戦争を体験した。プロシア軍は鉄血宰相といわれたビスマルクが率いていたが、榎本とビスマルクの親交がこのときから結ばれた。榎本は軍艦奉行となり、幕府海軍の実質的な最高責任者になった。ちょっと前までは学生(留学生)だった榎本が、一躍江戸幕府の海軍奉行になり、討幕の矢面に立たされることになった。
彼は蝦夷地に、オランダ的な通商立国を構想した。その国家政体は、共和制である。自由で平等な市民によって構成される共和政体こそがその国家の繁栄の基礎であると認識していた。
箱館戦争が終結した後、榎本武揚達は明治新政府によって捕らわれた。この時、彼等は皆、死刑を覚悟していた。しかし、蓋を開けてみると彼等は(約一名を除いて)放免、しかも明治新政府への出仕が求められた。彼等の助命に関しては周知の通り、箱館戦争では新政府軍の参謀であった黒田清隆の働きが大きい。
愛読していた国際法の著書『万国海律全書』を箱館戦争時、黒田自身が受け取ったが、自分の事よりも国家の事を思う榎本に対して感銘を受け、何とか榎本を救いたい思いがあった。そこで黒田は西郷隆盛と福沢諭吉の力を借り、彼等の助命を求めた。黒田自身は頭を剃り、助命運動を行っていたそうだ。明治になったばかりの日本には人材がない.皮肉なことに「お雇い外国人」の力なくしては,北海道の開拓は不可能だった.このジレンマに,唯一見出された回答が榎本の開拓使入りだった。
日本にとって重大な外交問題が起こった。かねてより、ロシアによる樺太の領有権をめぐっての争いが頻繁になってきた。そこで、両国で正式に交渉して、国境を定めることになった。 ところが、新政府には外国、それも超大国ロシアと対等に渡り合えるような外交官はいなかった。そこで、白羽の矢が立ったのが、榎本だった。五年間のヨーロッパ留学を経験し、五カ国語に通じ、国際法に関しても詳しかった。「蝦夷共和国」政府の最高責任者として、外国の領事や船長、商人などと渡り合ってきた経験もあった。樺太問題は、北海道開拓使の管轄でもあり、黒田は榎本を推薦した。
明治七年(一八七四)一月二十三日、榎本は特命全権公使として、海軍中将の肩書きがつけられた。かつての敵将が新政府海軍の最高位についてしまったことになる。
ロシアで榎本は、大国に臆することなく、対等の立場でねばり強く交渉し、いわゆる「千島・樺太交換条約」の締結に成功した。ロシア皇帝アレキサンダー二世も、この結果には満足し、後に榎本に「神聖スタニスラフ第一等勲章」を与えたほどだった。(なお、現在日本が北方領土を日本領だと主張する根拠に、両国が平和裏に、対等に結んだこの条約がある。)