★サッポロビール園★ ★開拓使麦酒醸造所★

 サッポロビールのあの赤い星★のマークは皆さま、よくご存じのことだと思います。あの赤い星★はさっぽろ時計台(旧札幌農学校演武場)や赤れんが庁舎(明治21年の開拓使廃止後にできたんだよね?)、豊平館、水木清華亭、北大植物園博物館などで見られることが出来ます。変わったところでは日本基督教団札幌教会礼拝堂(設計者が開拓使の営繕課の人だったようです。)などや開拓の村に復元された開拓使本庁舎。そしてもちろん、サッポロファクトリーの開拓使ビールや、サッポロビール園の建物にも見ることが出来るのです。1872年(明治5年)1月、この人はあまり知らないんだけど、蛭子末次郎(えびこすえじろう)は開拓次官(この時点で事情により事実上開拓使トップ)黒田清隆の命令により、開拓使に「北海道旗章立置方、伺」を提出しました。蛭子末次郎は五稜星のマークを提案したのでしょうか。実は彼、あの五稜郭や弁天岬台場の設計・建設に携わった武田斐三郎(たけだあやさぶろう)の門下生です。函館にあった諸術調所で武田から航海術を習得したことから、恩師である武田の設計した五稜郭にヒントを得て、5つの角を有するデザインを考えたとする説があります。でもね、江戸幕府時代から、藩閥制度の中、各藩はその所属船に船旗を掲げていて、蝦夷地にあってはポールスター北極星を北辰旗として掲げていたとも聞いています。どちらが正しいのだろうか?

 1878年(明治11年)1月、開拓使は北辰旗の掲揚をやめるようになります。札幌本庁 開拓大書記官である堀基によるその通達は1878年1月10日になされ、「開拓使札幌本庁、工業局、警察署、公立学校、病院、出張所や分署などは標旗掲揚をしない」旨が記されています。1882年(明治15年)2月8日に開拓使が廃止されると、北辰旗も正式に廃止されました。

自生のホップの発見

 お雇い外国人のトーマス・アンチセルは北海道内を検索する中で、明治4年(1871年)岩内町ホリカップ川で自生のホップを発見することになり、当時の開拓使次官の黒田清隆に北海道での麦酒醸造を強く進言することとなりました。そして、同じお雇い外国人のルイス・ベーマーも本格的ビール醸造に適した大麦・ホップの種子や苗を米国、英国より輸入し、日本の官園で育成し、北海道での作付けに成功します。これが後の開拓使麦酒醸造所の設立に大きく貢献したことは言うまでもありません。のちにケプロンと意見が合わず、その役割はライマンに引き継がれていきます。

トーマス・アンチセル
大通公園のホップの実

 1876年(明治9年)9月23日に開拓使麦酒醸造所が開業し、その翌年からホップの栽培が始まりました。今の札幌市北二条から北五条西三丁目のあたりに、1877年(明治10年)4月に第一園および第二園(1.8ヘクタール)の開拓使ホップ園が開園しました。アメリカ種やドイツ種のホップを栽培していましたが、ドイツ種のホップはうまく育てることができなかったため、アメリカ種中心の栽培になりました。

 1882年(明治15年)、開拓使が廃止され札幌県・函館県・根室県が設置されると、開拓使麦酒醸造所は札幌麦酒醸造所に改称され農商務省工務局の所管となりました。開拓使ホップ園も札幌ホップ園と改称されました。

 1886年(明治19年)1月26日に北海道庁が開設され、北海道庁の所管となりますが、11月30日に大倉組商会へ払い下げられると、札幌麦酒醸造場は大蔵札幌麦酒醸造場になりました。あわせて、ホップ園は菊亭脩季(きくていゆきすえ)候爵に払い下げられ、現在の札幌市白石区に5haの規模で移植されました。

 1896年(明治29年)から二年間ヨーロッパに派遣された矢木久太郎がドイツで購入したホップ種子を持ち帰り栽培した結果、有望であることが確認できたため、1904年(明治37年)に苗穂ホップ園を現在の札幌市東区北八条東九丁目あたりに開設し、残存していた品種とともに栽培を再開しました。

 1906年(明治39年)3月26日、札幌麦酒、日本麦酒、大阪麦酒が合併し大日本麦酒株式会社が設立されるとともに山鼻ホップ園を札幌市南区石山一条二丁目あたりに開設されました。

SAPPOROビール園

  開拓使ビールの歴史についてはサッポロビールの施設に、博物館や、見学場所があるので、中央バス循環88を利用してみてください。ビアレストランや、壮大なれんがの施設を楽しむことが出来ます。

札幌駅南口 東急百貨店南側
運賃/片道210円
運行は30分間隔

こちらは札幌ファクトリーにある麦酒醸造所見学館です。開拓使の★が見えますね。
今はサッポロビールさんの商標です。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
実際に製造されている醸造設備を
ガラス越しに見ることが出来ます。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
展示場があり、開拓使麦酒の歴史が分かります。
ビール園までの時間がない方には最適です。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 サッポロビール園は元の製糖工場ですが、ここは本来の開拓使麦酒醸造所ですので、見学の価値があります。ビールレストランが併設されていますので、なかなか良いですよ。(コロナ対策の為一部閉鎖中です。)

階段を上っていくと展示場があります。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
公益財団法人 渋沢栄一記念財団
渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図
サッポロビール園 博物館映像より
サッポロビール園 博物館映像より

中川清兵衛と村橋久成

 村橋(33 歳)は、青木周蔵(欧州で偶然、中川清兵衛に出会った、のちの外相。)の紹介で、ドイツビール醸造法を習得した中川清兵衛(28 歳)を迎えて、いわば二人三脚の努力で、日本最初の本格的な官営のビール工場を完成させたのでした。1876 年(明治9 年)9 月23 日開業式の時、ビール樽を並べて白い塗料で「麦とホップを製すればビイルといふ酒になる」と大書させた写真が残っています。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA
日本麦酒はエビスビールを好評発売する。
のちに、サッポロビールは1972年これを復刻しています。

 技師の中川清兵衛(1848~1916)は、越後国三島郡与板(現在新潟県長岡市)出身で、17 歳の時、横浜のドイツ商館に勤務。幕府の禁を犯して1865 年(慶応元年)4 月イギリスへ渡航、1872 年(明治5 年)ドイツへ移り、当時ドイツ留学中の青木周蔵(後に外務大臣)の支援をうけて、最大のベルリンビール醸造会社ティボリ工場で修業します。2 年2 ヶ月後の1875 年(明治8 年)5 月、同社社長・工場長・技師長連盟の豪華な「修業証書」(現在サッポロビール博物館所蔵)を受けて帰国していますこの厳しいビール醸造技術を習得した中川技師抜きには、「開拓使麦酒醸造所」(今日の「サッポロビール」)の誕生はなかったのです。

17歳で欧州に密航した中川清兵衛と、留学していた青木周蔵が出会わなければ、更に村橋久成が、札幌の地に麦酒醸造所の建設に執着しなければ、今日のサッポロビール、或いは日本のビール業界はもう少し紆余曲折したのかもしれない。

サッポロビール園 博物館映像より

 1881(明治14)年、開拓使の廃止まで残り1年となったころ。村橋が必死に開拓・建造した七重開墾場、麦酒工場、葡萄工場、物産館など、開拓使官有物・施設は民間へと払い下げられた。同年5月4日、上野公園で第2回博覧会が開催され、冷製麦酒が出品されている最中、村橋は突如辞表を提出する。この日は、開拓使官有物払い下げを自由民権派が厳しく攻撃し、黒田清隆や大熊重信が辞任に追いやられた日でもある。ここでの村橋にはどのような思いが駆け巡っていたのだろうか。北海道の産業育成のための民間払い下げは最終目標であることだろう。あまりにも廉価が自分の注ぎ込んだ価値観と大きな差となったのだろうか。それともこれによって大きな利益を得た官僚がいたことに失望したのか。

彼は、北海道の地より姿を消してしまう。そして時は流れました。

 1892 年(明治25 年)9 月25 日、神戸市葺合村六軒道の路上で、巡視中の巡査が倒れ伏して動かない男性を発見しました。男は取り調べに対して最初は偽名を名のり、身元が判然としないまま、衰弱が激しく、3 日後の9 月28 日夜息をひきとりました。身元不明のまま遺体は、神戸の墓地に仮埋葬されました・・・・<死亡認(診断書)は、肺結核・心臓弁膜病>。

 ここは特に九州、鹿児島県からのお客様には特に知って頂きたいところです。村橋氏は鹿児島藩の士族にして、薩摩一百ニ郷の内、加治木領主の分家なり。維新前薩摩藩主は生麦事件から薩英戦争の敗戦より欧州英国にに学ぶべしと、藩士中最も俊秀の聞こえある少年十名を選抜して英京倫敦に留学せしむべしとして甲乙と詮索ありし時、村橋氏もその十指の中に数えられ、故の鮫島尚信、森有礼、吉田清成、今の松村淳蔵等の諸氏と串木野の湊より舟出して、薩摩藩、否、日本の未来を託され英国に渡航し、のちに戊辰戦争に黒田清隆に随行します。のち、開拓使は、1875 年(明治8 年)、「麦酒醸造所建設」も、まず東京青山の官園で試験をすることにしました。しかし、開拓使東京出張所農業課の最上職の村橋は、北海道には、建設用の木材・水・冷製ビールに必要な氷雪などが豊富にあり、最初から札幌に建設すべきことを建議して、その主張が認められたのでした。

 突然、明治14年(1881年)5 月4 日、開拓使を辞職します。5 月11 日「奉職中職務格別勉励として慰労金200 円下賜されています。北海道近代的農業の実現に情熱を傾注してきた村橋にとっては、明治13 年11 月の官有物民間払い下げ公示後、「薩摩閥の官財癒着」として新聞にすっぱ抜かれた一大スキャンダル・明治15 年開拓使廃止決定などによって、夢を打ち砕かれた大きな憤りと絶望だったようです。辞職後の村橋は、その後ぷっつりと音信を絶ったのです。

 旧友たちが新聞「日本」の「英士の末路」によってその死を知り、元開拓使官吏加納通広が、村橋の実子圭二(東京在住)を伴って神戸に出かけて遺骨を持ち帰り、10 月23 日青山墓地で黒田清隆ら参列のもとに、村橋久成の葬儀がとりおこなわれたのでした。

 村橋久成は、東京・青山霊園に眠っています。墓石には丸に十の字の島津家の家紋があり、「正七位村橋久成墓 鹿児島県士族 明治二十五年九月二十八日没 享年五十有三」という文字が彫り込まれています。

村橋が札幌産業育成に込めた熱き情熱はどこから来たのか? 

  ひょっとするとと誰もが感じているあの事。 彼が黒田を参謀とする新政府軍に従軍した戊辰戦争時函館戦争に勝利した薩摩軍は勇躍、鹿児島に向け明治2年5月25日に函館を発ち、7月24日に郷里へ帰還しました。長きにわたって戦い、凱旋して帰ってきた父や息子、そして勇士を迎える大勢の人たち。郷里はたいへんなにぎわいでありました。そして、村橋はただ1人、喧騒の中を通り越え、閑静な自宅に向います。帰ると年老いた母親だけが玄関で手をついて村橋を迎えていらっしゃいました。そこには戊辰戦争の際、越後で戦死した弟・宗之丞の位牌が置かれており、その隣には小さな位牌が置かれてあっりました。母が涙ながらに話すには、村橋が出陣してほどなく息子が生まれたが、その後、高熱に見舞われ、亡くなったとのことでした。小さな位牌は村橋が会って抱きしめようと、心待ちにしていた息子の変わり果てた姿だったのです。妻の志津は、薩摩の女としての道を守り、初七日から実家に帰ったとの事であります。 そして、それから、彼が思い至ったこと…………  それは、誰にも分らない事なのかもしれません。しかし、それは大きな花となって表れたことは間違いのない事なのです。

 2004 年(平成16 年)2 月村橋久成胸像「残響」札幌建立期成会(会長木原直彦)が発足して、それを札幌の知事公館前庭に建立。2005 年(平成17 年)9 月23 日、高橋はるみ知事によって除幕されました。

北海道知事公館敷地内の「残響 村橋久成胸像」
倫敦留学時代の村橋久成

 北海道、札幌の街の歴史は浅いかもしれませんが、 明治維新で活躍した若い日本人の躍動を感じる場所です。 国内国外の皆様、そして、道民、札幌市民の皆様に 少しでもその思いをお伝えできることを願っています。彼らの思いがきっと現代の我らに勇気を与え、助けとなると 信じています。 ご覧いただいたことを心より感謝しています。

札幌市東区北7条東9丁目にある札幌ビール園
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 明治13(1880)年、クラーク博士は、開拓に勤しむ仙台藩士に「侍よ砂糖を作れ」と語りました。開拓使は現在の伊達市に官立の紋鼈(もんべつ、現在の伊達市)製糖所を造ります。その後、同製糖所は民間へ払い下げられ、明治21(1888)年になって「札幌製糖会社」が誕生します。ドイツのサンガーハウゼン社に基本設計させ明治23(1890)年に工場を造り、操業を始めました。これが博物館、ビール園として残っている赤レンガ建造物です。しかし、甜菜の栽培技術が未熟だったことから作柄も思わしくなく、製糖技術も低水準であったことなどからまもなく経営破たんの憂き目に遭います。明治34(1901)年、札幌製糖会社は設立後13年で解散します。この建物を札幌麦酒会社が買収します。札幌麦酒会社は、開拓使麦酒醸造所の民間払い下げを受けて、明治の実業家・大倉喜八郎(1837-1928年)、浅野総一郎(1848-1930年)、渋沢栄一(1840-1931年)らが買い取り、新たに設立した会社です。

 

専属のガイドさんが一生懸命説明してくれますよ。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA

サッポロビール園博物館内は、自由に見学も可能ですが、ガイド付きの「プレミアムツアー(有料)」で、試飲もあります。ネットで予約申し込みできるようですが、現在はコロナ対策で、人数制限の為、キャンセル待ちの方が現実的です。でも、少しだけ勉強していれば、自発ガイド見学で楽しみましょう(^^♪

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 見学コースはミニシアターがあったり、一般の人が見学できる場所もあるのし、試飲コーナーも自由に利用できるので、十分に楽しめると思いますが、苦言を申し上げれば、休館日があるので事前にご確認ください。まぁ、企業の考え方かもしれませんが、観光のお客様からすると残念な設定になっているような気がしますね。

サッポロビールHPより
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
サッポロビールHPより
岩下志麻さん、美人さんですね。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
三船敏郎さん、存在感がすごすぎです。OLYMPUS DIGITAL CAMERA
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
浜崎伝助さん、あれ!違った?
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
所ジョージさん、若いですね。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
youtube.com/@walker_sapporo

日本近現代史のWEB講座より

この明治14年の官有物払い下げ事件に関する記述を是非とも読んでいただきたい。

井上毅という人物~明治14年政変を中心に

まず井上毅という人物について「世界大百科事典」の長尾竜一氏の解説を引用する

井上毅(いのうえこわし)1844-95(弘化1-明治28)
明治期の官僚,政治家。大日本帝国憲法,教育勅語などの起草にあたったほか,明治10-20年代の法制・文教にかかわる重要政策の立案・起草に指導的役割を果たした。熊本藩士の出身。生家は飯田家で,井上家の養子となった。幕末に江戸に遊学,奥羽戦争にも従軍した。1870年大学南校中舎長となり,翌年司法省に出仕,72-73年渡欧し,主としてフランスで司法制度を調査した。帰国後,大久保利通,岩倉具視,続いて伊藤博文に協力して,枢機に関与した。とくに明治14年の政変では参謀として活躍,また元老院国憲按を却下して,プロイセンに範をとった君権主義的憲法を採用するよう岩倉に建言した。大日本帝国憲法起草の中心人物で,また,教育勅語の起草にあたっては,元田永孚の儒教的君主論を抑えて,勅語の中立性を確保し,権威そのものに高めるよう尽力した。法制局長官,枢密院書記官長,枢密顧問官を歴任した後,93年3月から8月まで第2次伊藤博文内閣の文部大臣を務めた。冷徹な政治的リアリストで,漢籍と西洋法制の両面に通じ,ボアソナード,レースラーらの協力を得て,日本法制の近代化に大きな功績を残した。儒学の非実用的性格を排し,尚武の気風と《韓非子》などの統治術を尊び,また政治における〈機〉を重視した。中江兆民は〈真面目なる人物,横着ならざる人物〉として評価している。終生,持病の結核に悩み,日清戦争の遂行に関与できないことを悔やみつつ世を去った。号は梧陰。[長尾 龍一]

井上毅と伊藤博文

井上は、非藩閥のリーダー大隈に甘い岩倉よりも、藩閥勢力内の憲法制定や立憲政実現には積極的であるが、大隈=福沢の危険性をも理解し、自分を立憲政治実現の中心として働かせてくれるであろう人物、伊藤博文に接近する。

ただ、伊藤は井上の考えをそのままうけいれる人物ではない。たとえ結論が同じであっても、最初に憲法の原則を天皇が明示するという拙速なすすめ方はすべきでないと考える人物であった。伊藤はこの有能な官僚のいうがままになることはない政治家である。とはいえ、大久保・木戸からドイツ流の憲法制定という大事業を託された伊藤にとって、やはり井上はかけがえのない存在であった。憲法制定を井上中心に進めることは既定のコースとなっていく。
かれらがめざす漸進的な立憲体制への移行を実現するためには、一方における大隈=福沢派の影響力の排除(イギリス流の憲法の否定)と、他方における薩摩閥を中心とする立憲政治消極論を押さえ込むことが課題となる。
この点で伊藤と井上の利害は一致していた。

開拓使官有物払下げ問題

こうしたなか、黒田清隆による開拓使官有物払下げ問題が発生する。この事件について、世界大百科事典における永井秀夫の解説をみることとする。

開拓使官有物払下げ事件
開拓使廃止の時期が迫った1881年に,開拓使の官営事業を官吏や政商に払い下げようとして世論のはげしい攻撃をうけ,払下げを中止した事件。藩閥政府攻撃が強まったため,明治14年の政変をひきおこした。開拓長官黒田清隆は,開拓使官吏の結成する北海社と,関西の政商で鹿児島出身の五代友厚らがつくった関西貿易商会とに開拓使官営諸事業を払い下げ,継承させようとし,8月1日政府は黒田の要求を認めた。払下物件は,当時建設中だった幌内炭坑や鉄道を除くほとんどの官船,倉庫,工場,鉱山などをふくみ,38万7000余円,無利息30年賦という破格の条件だったことから,薩摩閥の官僚・政商が結託して官物を私するものとして,はげしい憤激を呼んだ。自由民権派だけでなく,政府派の新聞や論客まで反対の立場を表明し,政府は苦境に立った。北海道でも函館の豪商はこの払下げに対抗して開拓使の官船・倉庫の払下げを出願し,函館区民の請願・建白運動がおこった。払下反対運動のかげに国会早期開設を唱える筆頭参議大隈重信と岩崎弥太郎(三菱),福沢諭吉の共謀援助があるという説が流布され信ぜられた。政府は10月12日払下げの中止とともに国会開設の詔勅を発し,あわせて大隈重信とその系統の官僚を免職にした。これを明治14年の政変という。[永井 秀夫]

  きっかけは開拓使の官有物払下げである。薩摩派のボスで開拓使長官・黒田清隆が膨大な税金を投入した財産を同じ薩摩の政商に極端に安い価格と条件で売却しようことがきっかけである。不透明なやり方に政府内外から反対の声が噴出したことはいうまでもない。しかし、この問題を最初に報道したのが福沢系の新聞(東京横浜毎日新聞)とされたことで、話は別の方向にそれていく。払い下げに反対する大隈が、福沢グループにリークしたとささやかれたからである。
裏で暗躍したのが井上といわれる。井上は福沢周辺から情報を収集、大隈が福沢や岩崎弥太郎と通謀し、政府転覆の陰謀を図っているという噂をつくりあげた。

明治14年政変

薩摩閥のボス黒田の危機は薩長藩閥の危機と感じた薩摩系有力者は長州派のボス伊藤のもとに結集、伊藤は藩閥のリーダーとして薩長の敵・大隈追放をすすめた。あわせて、それによって起こるであろう世論の反発に対抗するため、黒田に払い下げを断念させ、民権派が求める国会開設を認める。ただし十年後という中途半端な時期で。

計画は、7月にはじまった天皇の東北巡幸を利用してすすめられた。大隈や黒田・有栖川宮が随行し、さらに岩倉が東京を離れた間隙をぬって進められた。東京を離れていた井上馨のもとに井上毅を、岩倉の下に山田顕義を派遣、説得にあたる。東京では明治六年の政変同様、三条実美がつらい立場に追いやられていた。今度は、薩長の勢力に取り囲まれて。岩倉も覚悟を決めて東京にもどる。
クーデターは10月の帰着をまって決行された。大臣・参議連名の大隈罷免の上奏に天皇もしぶしぶ同意、伊藤自ら西郷従道とともに大隈のもとを訪ね辞職を勧告、黒田は天皇の命ならばと払い下げ中止を承諾し辞職、あわせて国会開設の詔勅が発表された。
政府内の矢野文雄や小野梓ら大隈=福沢系の官僚はつぎつぎと辞職、辞職しないものは罷免された。
伊藤=井上毅の完勝であった。

十年後の国会開設を公約する勅諭を起草したのも井上毅である。
井上はそのねらいを
①内閣の一致とくに薩長の一致を示す
②天皇の命令(勅諭)でなければ事態を鎮静できない
③急進派はムリでも中立派の士族は味方にできる
④反対するものは急進派と見なすことができる
と記している。
草案を受け取った伊藤は
「ことさらに躁急を争い、事変を煽し、国安を害するものあらば処するに国典をもってすべし」と詔勅には用いるべきでない脅しのことばをつけくわえた。

井上毅の勝利と伊藤博文

大隈の失脚は、井上が期待したように大隈=福沢のすすめるイギリス流の政党政治の否定と、岩倉=伊藤=井上のドイツ流の超然主義の勝利であった。
この路線をとったことは、大隈意見書が記した政府を国民の支持の上に樹立するという立憲政体のありかたを捨てることであり、国民の信任が不十分な立憲政体(かつては「外見的立憲制」とよばれた)でよしとする路線の勝利であった。
非藩閥のエース大隈を切り捨てることは薩長閥がさらなる勢力拡大をすすめることでもあった。
薩長閥は井上毅の後継者ともいうべき帝大卒などのエリート官僚と融合、権力を維持しつづけ、国会の外におかれた強力な執行機関=官僚組織を維持し続ける。これが伊藤がヨーロッパで学んだ事である。
国会開設後も、国民の信任のうえに政府を樹立することを拒否、さまざまな利益を供与することで国会議員たちを飼い慣らし、藩閥とその後継勢力が権力を維持し続ける。
こうしたありかたが日本の政治の特徴となる。

作戦参謀ともいうべき位置にいたのが井上毅は、伊藤との関係を強めるとともに、政権最大のイデオローグとしての地位を確実なものし、明治憲法の第一次草案作成の栄誉を獲得し、憲法制定と憲法体制樹立の中心として名を残す。
井上のあらたな保護者となった伊藤ではあるが、有能すぎる井上をおさえようとしていたようにも見える。欧州への憲法調査には井上ではなく伊東巳代治を同行させ、シュタインの議論を聞いて「死処を得た」と狂喜したのも、井上と互角に対峙しうるだけの論点を得たこと面もあるように思われる。
憲法起草でも井上に独走させないよう、ロエスレルにも草案をつくらせ、原案作成の過程では伊東、さらに金子堅太郎も同席させている。伊藤にとって、井上をいかに使いこなすかは課題であったように思われる。

注記:この文章は「明治憲法の制定と憲法体制(1980年代後半~1889)~憲法と帝国議会(2)」を記す過程のなかでできたものです。よろしければあわせてご覧いただければ光栄です

【参考文献】
辻 義教『評伝 井上毅』(弘生書林1988)
梅溪 昇『増補明治前期政治史の研究 』(未来社1978)
稲田正次『明治憲法成立史(上)(下)』(有斐閣1960)
坂野潤治『日本近代史』(筑摩書房2012)など
山住正己『教育勅語』(朝日新聞社1980)
原田敬一『帝国議会誕生』(文英堂2006)
伊藤之雄『伊藤博文』(講談社2009)など
佐々木克『日本近代の出発』(集英社1992)