明治9年(1876年) 札幌農学校 開校
札幌農学校
ケプロンは北海道開拓の目的は帝政ロシアの南下政策に対抗すべき防衛軍備とそれに伴う農業の確立において、黒田に以下のような意見書(ケプロン初期報文)を提出した。
1、 北海道の気候、土壌は農業に適し、開発可能な資源も豊富である
2、 首都として札幌は適切である
3、 機械力の利用を第一とし、諸工場を札幌に開設する
4、 果実の実る土地であり、各国から苗木を取り寄せ試植すべき
5、 農業指導者の育成を目的とした東京と札幌の官園に農学校を設置し、化学試験所を併設の上、専門の教授を置く北海道大学の前身がスタートしたのは、北海道開拓時代の明治期。
1872年に「開拓使 仮学校」を東京に置いたのが始まりでした。3年後に札幌へ移転し「札幌 学校」へ改称。1876年には、調所広丈氏を初代校長、クラーク氏を初代教 頭として迎え、同年8月14日に「札幌農学校」として開校式を挙行しまし た。この日付が現在でも北海道大学の開学記念日となっています。
在米国吉田清成公使は、開拓使条件考慮、コネチカット州教育局長のビー・ジー・ノースロップの紹介、マサチューセッツ州立マサチューセッツ農科大学長、ウイリアム・スミス・クラークが人物、識見すぐれた人物、クラークと交渉した。別説:札幌農学校を設立するにあたって、当時の日本政府は有能な外国人学者を捜していました。
その時、相談を受けてクラーク先生を紹介したのが、同志社大学創始者である新島襄です。吉田公使 12月20日、クラークと会見、クラークは当時農科大学の現職の学長、理事会の許可を得ることが容易ではなく、交渉は難航した。しかしクラーク自身が異常な熱意と強い希望を表明、理事会も折れて、翌年3月3日、ワシントンの日本公使館で、マサチューセッツ農科大学の現職の学長のまま、一年間招聘されるという異例の契約の調印が結ばれることになった。
上の二つの文章を見るとクラーク博士の紹介者が二人いますね。下部の具体的な内容を見ると、ノースロップが紹介者として、現実的ではないかと思えますね。
吉田公使から札幌農学校への招聘の交渉を受けた翌日、クラークはノースロップにあてた手紙のなかで、その抱負の一端を次のように披瀝している。第一に、「余が菅する学校の事務に対し大いなる障害もこれ無く、都合にそうらわば、喜んで日本に赴き、サッポロ学校創立に尽力したい」と決意、しかし次に、12ヶ月ないし14ヶ月間より長くは無理で、それ以外の休暇は許可されぬことにふれ、「創立につき余が日本に在りて施すべきことの肝要なるものは、一ヶ月にてほとんど2カ年分のことは成し得べし」とその気概のほどを示し、「・・・・・サッポロ学校永久真に要用の学校となるものにあらざれば、余においてこの校に関係候ぎは最も好まざることにこれ有り候」と、その熱烈な信念クラークは赴任すべき教官の物色にあたり、同校出身で(理学士)の称号をもっているウィリアム・オブ・ホイーラーWilliam Wheeler、ダヴィッド・ピー・ベンハローDavid P.Penhallowの2人を決定した。
1876年(明治9)6月29日に、無事東京に着いた。クラーク博士一行は東京に着くやいなや、ただちに札幌農学校に入校させるべき生徒たちの選考に着手し、新たに東京英語学校在学中の生徒から口頭試問によって官費生十一名を選んだ。官費生とは、授業料、生活費を開拓使が充当するという事です。他には自費での学生もいました。官費生は卒業後5年間、開拓使にて就業を義務図けられていましたが、すぐに廃止となり、卒業生たちは幸運にも、海外へ留学の徒となるのです。
当時の薩摩藩ははすごいと思いますね。
明治13年の手宮‐札幌間鉄道開通
大久保利通は初めての蒸気機関車乗車の回想で、
「まさに百聞は一見にしかず。愉快にたえず。
鉄道の発展なくして国家の発展はありえない。」
北海道の鉄道建設は日本では3番目と言われていますが、最初の明治9年の新橋ー横浜間の鉄道建設は大変だったようですね。「陸蒸気」と呼ばれ、ばい煙・火の粉をまき散らし、時には火災の原因になると畏れられ、近隣住民には忌み嫌われ、一部は海岸線より海側に線路構台を作ったようです。北海道ではまだ、住民にそこまで地元意識が根付いていなかったのだと思います。
小樽は、この札幌ー手宮菅の鉄道開通によって、いちはやく石炭の積み出し港として内外にクローズアップされます。
まもなく札幌ー幌内間も開通し、幌内炭鉱からの初荷が小樽港へ運ばれたのは、明治14年11月のことでした。
この距離90キロ、走行時間は5時間。旅客料金は40銭、盛りそば一杯1銭。
ジョセフ・U・クロフォード
明治12(1879)年に難工事と考えられていた張碓海岸(小樽市)の道路開削に成功し、さらに翌明治13(1880)年には幌内鉄道の建設を任されます。工事は着工からわずか11ヶ月で手宮・札幌間が開通、アメリカから輸入された2両の蒸気機関車(義経号・弁慶号)も完成し、11月28日に汽車運転式が挙行されました。
その後、豊平川の架橋など数々の難関を乗り越え、明治15(1882)年11月13日に手宮・幌内が全通、翌年9月17日、開業式典がとりおこなわれました。明治14年(1881年)に任期満了となり、帰国するまで幌内鉄道の手宮 – 札幌間の鉄道敷設工事を指導しました。明治14年の明治天皇行幸に使われました。間に合ったね(^^♪(^^♪
同区間以外にも高崎 – 東京 – 青森間の鉄道敷設工事も指導。
また、クロフォードの母国から機関車等を購入し、多くの技術者を雇いいれました。明治13年11月28日、待望の手宮ー札幌間35キロの汽車運転式が盛大に行われました。
この日、前頭部に日章旗と星条旗を並列させた機関車弁慶号は、客車3両を率いて、午前9時に手宮停車場を、時速20キロの速さで発車。
札幌停車場前では開拓使の官僚たちはもちろん、札幌の住民たちが興奮して待ち受けていました。
やがて正午、弁慶号は汽笛を鳴らし、カランカランと鐘を鳴らしながら入ってきました。
その後、義経号、しずか号など、アメリカ・ポーター社の蒸気機関車6台が活躍しました。
このライマンさんは当時開拓使女学校の学生だった、広瀬常さん(長身美人)に一目ぼれ、当惑した常さんが黒田長官の紹介で、森有礼と契約結婚なるものをするのですが、のちに常さんの実家に養子になった人、藪重雄が静岡事件と言う暗殺事件を起こし森がこれを減刑処理する事になります。これが原因かわかりませんが、離婚となってしまいました。詳しくは、函館出身の作家森本貞子さんが「秋霖譜 森有礼とその妻」(2003年、東京書籍)で離縁の真相を解き明かしています。
明治元年、三笠の幌内川上流の炭層が住民により発見され、明治6年に開拓使の榎本武揚が幾春別川を遡って調査にあたった。榎本は旧幕府の海軍副総裁で、戊辰戦争の最後の戦い「箱館(函館)戦争」の指揮をとり、降伏後は才能を買われて開拓使の中判官になり、鉱山調査を命じられていた。その後、お雇い外国人で鉱山地質技師のベンジャミン・スミス・ライマン率いる調査隊がくわしく調べ、明治12年に幌内炭鉱が開抗した。19年には、同じ三笠で幾春別炭鉱が開坑した。明治22年に北海道炭鉱鉄道(通称・北炭。その後「北海道炭鉱汽船」に)の設立と同時に払い下げられ、以降わが国の近代化や太平洋戦争後の復興を支えた(平成元年閉山)。炭都・三笠は昭和30年代には大手炭鉱が5山あり、人口もピーク時には63,000人を記録した。明治6年から8年まで、北海道各地の地質などをくわしく調査した。調査結果は「日本蝦夷地質要略之図」にまとめられ、明治9年に開拓使から発行された。
地図は北海道の地質を7層に区分し、黒色インクで印刷された原図に、ライマンが手描き彩色をほどこしたという。総合的な地質図としては日本最初のもので、明治11年に発行された「北海道地質総論」は、この地図の説明書の役割を持っている。
村橋久成は1876(明治9)年4月。麦酒醸造所、葡萄酒醸造所、製糸所の3工場を札幌に建設するのがその目的だった。村橋はこの時34歳。人生で最も充実した時期であった。話をその前年に戻す。1875(明治8)年は村橋にとって極めて心躍る多忙な年であった。同年8月、開拓使の3大施設のひとつ北海道物産縦覧所(物産館)が設けられ、所轄する農業課の最高責任者であった村橋が事務管理を兼務することとなった。その直後、北海道で成育されるホップや大麦を利用して麦酒醸造所を建設することが、明治政府上局の議案として浮上してきた。きっかけとなったのは、開拓顧問兼お雇い教師のホーレス・ケプロンによる「北海道は寒冷地で稲作に適していないので麦(小麦、大麦)を栽培すべき」との提言。ケプロンと同じ外人顧問のトーマス・アンチセルが北海道南部に野生のホップを発見、北海道での麦酒製造について建言していたことも理由だ。ケプロンが麦作を奨励し、トーマス・アンチセルが北海道におけるホップ栽培を見出した――これが開拓使麦酒醸造所が設立される遠因ともなったわけだ。物産縦覧所の設置と同時期、開拓使は北海道の産業振興を促進するため、麦酒醸造所建設を計画した。村橋は詳細な計画の立案を命じられる。村橋が最初に手がけたのが醸造技術責任者の任命だ。当時、ドイツのベルリンにあった「ティフォーリー麦酒工場」で醸造技術を修得した中川清兵衛がその目に止まった。同年8月30日、村橋は中川を自宅に招き、承諾を取りつけて採用した。契約書には、契約期間中の辞職は許されない、職務を疎かにした場合は雇いを解約し、今まで受け取っていた給料を全額返済するという厳しい内容だった。中川の職名は「麦酒醸造人」。月給は50円(今の100万円)で、9等出仕の官吏と同額という破格の扱いだった。中川と村橋が巡り会ったことは、今考えれば絶妙のタイミングであった。その後の麦酒醸造を成功させた要因とも言えるだろう。中川は早速〝東京〟における麦酒醸造所の絵図面を作成。見積もりもでき上がり、ドイツやアメリカへ工場の設備資材や大麦、ホップの注文書を作成。次々と発注していった。村橋は以前から、東京に醸造所を造ることは無駄だと考えていた。農業や産業の振興が目的なら「最初から北海道に建設すべきで、それが出費を抑えることになる」という考えだったからだ。外国へ注文した品が横浜港に到着したのは同年12月28日のこと。それを受け取りに行く中川を見送った後、村橋は非常手段として、黒田清隆長官を含む上局者に稟議書を出した。それには「麦酒工場は試験のため東京に建設することになっているが、北海道には木材等も充分にあり、気候も相当であり、最初から実地(北海道)に建設することで2重の支出を省くことが可能である。ついては北海道にて最初から建設することをご検討戴きたい。建設場所については水利運便、気候等の適地を選択する必要があり、緊要にてご決済戴きたい」と書かれていた。さらに予算として麦酒製造所建設に4980円48銭2厘(約1億円)、機器の購入に1813円63銭5厘(約3600万円)の決済を要請している。村橋はこの稟議書のタイミングを見計らっていたのだろう。それが醸造用の機器が届いたその時だったということだ。当時(今も変わらずだが)、上局の決定を覆すことは自身の地位を危うくするもの。まさしく命がけの稟議書であった。簡潔で明瞭なロジックで記載された文面、絶妙のタイミング、そして村橋の巧みな根回し。何よりも、英国留学中に衝撃を受けた西洋式大農場で、大麦やホップを北海道で栽培したいという村橋の強い思いが働いたのだろう。なお、この稟議書は北海道大学附属図書館に現物が保存されている。村橋には、麦酒醸造所の北海道での建設に加え、葡萄酒醸造所及び製糸工場の開設という任務が与えられた。
葡萄酒工場は、七重・東京試験所生産の葡萄を利用するためであり、製糸工場は養蚕振興が目的だった。村橋の力量が上局に認められた結果であった。翌1876年(明治9)年4月、札幌在勤の辞令が出る。当時、村橋は開拓使勧業課の最高責任者であったが、3工場建設は村橋が直接現地で指揮することになった。同年5月30日、村橋は職人らとともに玄武丸で小樽に到着。3工場は札幌の創成川の東、現在「サッポロファクトリー」がある場所に建設することになった。村橋は、札幌に向け出発する前から工場予定地に思いを巡らしていたが「フシコサッポロ」の水源がある雁木通りをその適地として描いていたのだ。早速、三所建設の事務所を雁木通り近くに設け入札を募ったが、麦酒醸造所建設を2773円(約5500万円)で落札したのは水原(すいばら)寅蔵である。水原は、以前このブログでも取り上げたが、中島公園からススキノにかけ大林檎園を作り「水原りんご」としての名声を高めた男だ。村橋は水原について「実直である反面、新しいものを積極的に取り入れるという冒険心を持った不思議な男だ」と評している。村橋指揮の下、醸造設備を中川が、工場建設を水原がそれぞれ陣頭指揮し、多くの作業員も懸命に努力した。同年8月30日には葡萄酒工場が、次いで9月8日に麦酒醸造所が落成した。この間、三条実美(さねとみ)、伊藤博文、山形有朋の明治元勲らが3工場を視察している。3工場の開業式は9月23日だった。多数の参加者が列席し、製糸場で挙行されたという。1936(昭和11)年発行の「サッポロビール沿革誌」には、開業式の写真が載っている。そこには40もの麦酒樽が並べられ、1樽に1文字ずつ大きな字で「麦とホップを製すればビイルという酒になる」と白いペンキで書かれている。村橋が命じて書かせたのだろうが、写真好きの黒田清隆はこれを贈られ、ご満悦だったとのことである。第1回の醸造分は大半が東京に送られ、アピールの意味もあって宮内庁をはじめ政府高官や軍の幹部に寄贈された。サッポロビール博物館には、右大臣の岩倉具視、参議の大隈重信と大木喬任の3者連名で、政府高官各位に宛てた開拓使麦酒送り状が展示されている。博物館による説明文には「コルク栓の取り付けが良くなかったため、献上した麦酒全部が吹きだしてしまい、1滴も残っていないという失敗もあった。」と書かれている。一説によると、一番肝心な内務卿の大久保利通に送られた12本の麦酒瓶には1滴も残っておらず、黒田が赤っ恥をかいたといわれる。村橋が腐心したのは、生産された麦酒や葡萄酒をどのようにして消費地である東京・横浜に運送するかであった。製氷技術が完備されていない当時のこと、麦酒の保存と輸送は苦労が多かった。
包の中に小樽・色内川の氷を敷き詰めたり、函館・五稜郭の濠から切り出した氷で大もうけした中川嘉兵衛所有の氷蔵を利用したり、小樽手観や埠頭の岩窟に貯蔵したりと、苦心のほどが見える記録も存在する。麦酒はドイツ流の製造法によって醸造されていた。開拓使はこれを「札幌冷製麦酒(目耳曼:グルマン麦酒)」として翌1877(明治10)年6月ごろから一般販売を始めた。冷製麦酒のラベルには、開拓使のシンボルである「五稜星(北極星)」が採用された。初年度は100石(2万5000本)の出荷であったが、評判が高くなるにつれ、生産高は急激に伸びていった。第1回内国博覧会に出品されるまでになったのだ。だが村橋は、目的が達成されたと考えるようになってから、長い間にわたって張り詰めていた緊張感が急激に衰えていくのを感じていたという。1881(明治14)年、開拓使の廃止まで残り1年となったころ。村橋が必死に開拓・建造した七重開墾場、麦酒工場、葡萄工場、物産館など、開拓使官有物・施設は民間へと払い下げられた。同年5月4日、上野公園で第2回博覧会が開催され、冷製麦酒が出品されている最中、村橋は突如辞表を提出する。この日は、開拓使官有物払い下げを自由民権派が厳しく攻撃し、黒田清隆や大熊重信が辞任に追いやられた日でもある。その後、村橋は11年後の1892(明治25)年10月12日に神戸郊外の路傍で行き倒れの姿で発見されるまで、洋として知れなかった。
皆様は横浜での「生麦事件」をご存じの方も多いと思いますが、島津久光の行列を乱した英国商人たちへの処置は米国報道でも止む無き文化の違いと報じられましたが、薩英戦争と言う国家と一藩の戦いとなり、五分の結果に至る。英国が驚くのはその対戦国に自藩の若者の倫敦留学を申し入れたことである。先に紹介した、吉田清成、五代友厚、トランプ米国大統領が称賛した長澤鼎など優秀な人材を輩出することとなった。村橋もこの時、留学で得た砲術技術で、戊辰戦争で活躍している。薩摩藩は恐るべき藩でありました。
村橋久成
1892(明治25)年9月25日、神戸市葺合村(ふきあい村、現在の神戸市中央区)の路上で、警官が1人の行き倒れの男を発見した。所持品はなく、下着だけの裸同然の姿である。男は当初偽名を使ったが、その後「自分は鹿児島塩谷村の村橋久成である」と名乗った。男は病院に運び込まれたが、帰らぬ人となった。神戸市は10月に入って「又新(ゆうしん)日報」に行旅人(いきだおれ)死亡記事を掲載した。その内容は「鹿児島県鹿児島郡塩谷村 村橋久成 右の者9月25日当市葺合村にて疾病のため倒れており、当庁で救護中に同月28日に死亡し、仮埋葬した 心当たりの方は申し出ていただきたい」というものであった。
新聞で村橋の死を知った黒田清隆は、神戸から遺体を東京に運び、自ら葬儀をおこなったとされている。村橋の北海道とのかかわりは、明治2年箱館戦争を終え、薩摩へ帰宅するも、弟の戊辰での戦死、子供の病死、其れゆえの妻の帰家。
大きな失意を抱え1873(明治6)年に函館七重開墾場の測量、畑の区割りをし、北海道における勧業・勧農の基盤を築いたというもの。翌1874(明治7)年には屯田兵制度創設にともない、琴似屯田兵村の区割りと開設作業を指揮。今の札幌市の基礎を固めた人物と言える。
明治の初め、対露防衛と産業振興の目的で設立された北海道開拓使は、新たな事業を検討していました。そこで、検討されていたのがビール。北海道の広大な敷地は原料の大麦を作るのに適していましたし、岩内という土地で地質調査をしていたトーマス・アンチセルによりホップが自生していることが発見されます。それに、ビール造りには大量の氷が必要。北海道は、気候も原料を育てる環境としても、ビール造りにピッタリだったのです。そして、この一大国家プロジェクトを立ち上げるに当たって、醸造家として白羽の矢が立ったのが、日本人として唯一本場ドイツでビール醸造を習得していた中川清兵衛。そして、その推薦をしたのは、ビール醸造を学ぶよう促した青木周蔵だったのです」清兵衛が辿ってきた数々の〝点〟が見事に繋がり、やっと〝線〟となったということでしょうか。しかし、あらためて、青木のマッチング力に驚いてしまいます。まるで、後に日本でビール造りが行われることがわかっていたかのよう! 未来から逆算して清兵衛をビール工場に送り込んだのでは? と言いたくなってしまいます。「清兵衛は、ビール造りに必要な機械の選定から工場のレイアウト、醸造スタッフの教育に至るまで全てに関わり、たったの3ヶ月で『開拓使麦酒醸造所』の立ち上げを行いました。すごいですよね!そして、後に民営化して『札幌麦酒会社』となり、これが現在のサッポロビールとなります。1877年には、東京でも「冷製札幌麦酒」という名で発売され、美味しいと評判だったのだそうです。清兵衛は、当時としては破格の高給(月給五拾円)だったようで、毎春に自邸の庭でビールを振る舞う会を開催していたという記録も残っていますから、冷製札幌麦酒の売れ行きが良かったことが伺われます。それに、ビールを作ることにおいては真面目で職人気質だったようですが、人を楽しませることによろこびを感じるような人だったのかなと想像するんです」一見順調に見られる「札幌麦酒会社」でしたが、当時、清兵衛は「粘性麦酒」という品質劣化品が時折できてしまうことに悩んでいました。清兵衛がドイツで修行した頃には、これを解決する技術は開発されていなかったのでしょう。それを、ドイツからやってきた外国人醸造家が容易く解決してしまう(パスツールが発見するのです。)のですが、その方法は清兵衛にも教えられないまま。その他にも、やり方や考え方の相違もあり、清兵衛は「札幌麦酒会社」を去ることになります。恐らく、日本でのビール造りに情熱を燃やし、誇りを持っていた清兵衛ですから、去ることはとても辛い決断だったことでしょう。その後は、小樽で旅館を開き繁盛させましたが、利尻の人々が港がなくて苦労しているという話を聞き、私財を投げ打って港の整備に乗り出して、資金不足で旅館も潰してしまったのだとか。とにかく目の前に困っている人がいれば、動かずにはいられないような正義感の強い人だったのかもしれません。
清兵衛の情熱と開拓者精神は、現在にも生き続ける
ここまで中川清兵衛という人の人生を辿ってみると、天真爛漫さや勇敢さ、生真面目さや誠実さ、柔軟さや豪快さなど、いろいろな側面が見えてきます。江利川さんは、あらためて清兵衛の印象をこう話します。「ご本人の意思が最初にあるかないかは別にして、何か動かなくてはならなくなった時に、そこで得られる何かを最大限に得てくる力や、そこで得たものを次の場面で使って、事を大きく動かしてく力を持っている人だったのだなぁと改めて感じますね。運と言ってしまえば簡単ですけど、運が巡ってきたときに掴み取る力もあったのでしょうね。清兵衛の場合は、意思とは別の部分で、状況に対して最善を尽くして次のステップを掴んでいるという邁進の仕方が興味深く感じました。札幌麦酒醸造会社を辞めた時に、ビール醸造とは別の事業を始めたというのは、彼の義理堅さの現れのような気もします。古巣に不利益になるようなことはしない、対立軸に入るようなビジネスはしないという義理を感じます。目の前のご縁を大切にしてきた流転の人生だったのでしょうね」そして、初代麦酒醸造人 中川清兵衛の心は、現在のサッポロビールにもしっかり受け継がれていると話します。