1972年 札幌オリンピック

 1972年(昭和47年)冬季札幌オリンピック、覚えていらっしゃる人より、段々、まるで知らない市民は確実に増えて行くのは当然ですよね。 「えっ!そんなことがあったの?」という若い人がいるのは当たり前です。だけど、あの時、感動があったんです。覚えているのは札幌市民だけではありません。日本国民だけでなく、海外の観光客の中にもそれを覚えて頂いたうえで来訪されてる方も少なくはありません。2030年の冬季オリンピック開催が取りやめになったことは別として、今現在の記録をこの地に留めていることは大変重要なこと、市民の財産だと思います。 その財産を皆さんで楽しめればと思います。

札幌大倉山にオリンピックミュージアムがあります。
大倉山シャンツェの展望台へのリフトは真冬でも営業してます。
(天候、整備期間に依ります。)
観光施設として整備されています。
かつてはスキーを担いで登ってた。
喜七郎さん、シャンツェありがとう。

大倉 喜八郎(おおくら きはちろう)1837年~1928年

 戦乱の度に焼け太る大倉喜八郎は世間から「死の商人」「政商」「グロテスクな鯰」と呼ばれたが、それは彼らが時代の寵児として活躍できた背景があったことであり、責めを受けるべきことではない。井上馨・渋沢栄一・安田善次郎ら財界首脳の支援も得て、明治末期には軍需関連・土木建築・鉱工業の三本柱で「大倉財閥」を形成、自ら50以上の会社設立に関与し傘下企業は200社へ膨張した。が、大倉商業学校(現東京経済大学)の創設など経済人養成に尽力した大倉喜八郎の意に反し、大倉財閥に人材は育たず、嫡子の大倉喜七郎は道楽者となった。日露戦争後、大倉喜八郎は陸軍長州閥に歩調を合わせ中国大陸進出を加速、喜八郎没後も大倉財閥は多種多様な大陸事業に巨費を投じたが、成功したのは本渓湖煤鉄公司のみだった。満州の重工業開発を牽引した鮎川義介は逸早く全面撤退し日産・日立を残したが、逃げ遅れた大倉財閥は注込んだ資産を全て中国に接収され、2代目体制は財閥解体の嵐に翻弄され大倉財閥は壊滅した。銀行を核に四大財閥の再編が進むなか、銀行部門の無い大倉財閥では大成建設・帝国ホテル・ホテルオークラ・日清オイリオグループ・帝国繊維・日油・サッポロビールなどの紐帯は復活せず、辛うじて存続した中核の大倉商事も1998年に倒産し大倉財閥は完全に消滅した。

 子息の大倉喜七郎は趣味人として知られる人だが、横山大観をはじめとする日本画家やオペラ歌手など多くの才能を支援し続けていたことも有名な話だ。(趣味人と書いてはいるが、自分はこのシャンツェを創設し、札幌に国際的なスポーツ文化施設を残され、皇室を尊ばれ、日本、北海道の冬季スポーツ界の多大な貢献者であることは間違いないと信じています。)

 大倉喜七郎は1882年(明治15年)生まれ。財閥の御曹司として何不自由なく育った彼は18歳で英国に留学、かの地で7年を過ごすなかで、ボートやスキー、自動車、美術、音楽など、文化全般に造詣を深めた。華麗な私生活で知られた大倉は「バロン(男爵)・オークラ」とも呼ばれていたという。そんな彼が父亡き後に受け継いださまざまな事業のうち、特に力を入れていたのが、自らが生まれた年に開業した帝国ホテルなどのホテル事業。しかしながら、敗戦後は財閥解体により公職を追放され、全てを手放すこととなった。1951年(昭和26年)の追放解除後、大倉はかつて自らが経営していた帝国ホテルへの復帰を希望。これは実現しなかったが、彼のホテルへの未練は断ち難く、1958年(昭和33年)には「世界一のホテルを作る」と、資本金10億円を集め、新ホテル建設のための会社を設立する。

 ホテルの建設場所は、江戸時代には前橋藩主・松平大和守の上屋敷があった赤坂葵町3番地(現・虎ノ門2-10-4)。明治維新後しばらくの間は内務省地理寮として使われていたが、1878年(明治11年)に父・喜八郎が段階的に購入したものだった。ここには大倉が生まれ育った邸宅のほか、大倉家のコレクションを収めた日本初の私立美術館「大倉集古館」があったが、この集古館以外の部分がホテルの建設用地となった。

 この時、大倉は76歳。翌1959年(昭和34年)には、財閥解体に携わる持株会社整理委員会の委員長であった野田岩次郎を社長に抜擢し、3年でホテルオークラの開業に漕ぎ着けている。野田は『私の履歴書』(日本経済新聞に連載)の中で、この大役を引き受けた際のことを「現在、日本にあるホテルは全部欧米の模倣であって日本の特色を出していない。(中略)私がホテルを任されたら、日本の文化、美術、伝統を取り入れたものにしたいと言い、大倉さんとも完全に意見が一致した」と振り返っているが、その後3年をかけて完成に漕ぎ着いたホテルオークラは、まさにその言葉通りのホテルとなった。大倉は1963年、80歳で死去。「変なものを作ったら50年でも文句を言うよ」と言っていたという彼は亡くなるまで1年弱の間、ホテルに部屋を持ち泊まっていたそうだが、野田は「一度も文句を言わず、むしろ喜んでおられた」と前出の連載で書いている。

2021年閉店に際しての宮崎誠 ホテルオークラ札幌社長の財界札幌編集部の取材の一部より

 宮崎社長 国内有数のジャンプ台である大倉シャンツェは、ホテルオークラの創設者・大倉喜七郎氏の名前に由来しています。秩父宮殿下から「我が国初の本格的なジャンプ台を」とのお話を喜七郎氏が頂戴し、私財の5万円(現在の約8億2000万円)を投じて大倉土木(現・大成建設)が工事を手がけ、1932年に完成しました。完成後、施設は札幌市に寄贈され、喜七郎氏の尽力に敬意を表して大倉シャンツェと命名されました。その後、山そのものも大倉山と呼ばれるように。大倉家と札幌との縁は他にもあります。喜七郎氏の父・喜八郎氏は、サッポロビールの成り立ちにも深く関わっています。明治時代に札幌麦酒醸造所の払い下げを受けたのが喜八郎氏でした。その後、NHKで放映中の大河ドラマで人気の渋澤栄一氏、浅野財閥の浅野総一郎氏と共にサッポロビールの前身となった「札幌麦酒会社」を立ち上げました。

観光需要がコロナ前まで戻るのは…

 

 編集部――札幌都心では現在、3つの大きな再開発構想が動いています。JR新幹線駅前のプロジェクト、JR札幌駅南側の旧五番館跡地などの再開発、道銀本店ビルを含む平和不動産が主体の再開発です。有力候補は、そのどれかでしょうか。

 宮崎社長 う~ん、どうでしょうかね。あくまで一般論として申し上げるなら、事業性の観点で、その3つの再開発構想が高級ホテルの誘致を検討している可能性は高いでしょう。

 編集部――日本の観光需要が回復するのはいつでしょうか。

 宮崎社長 コロナ禍の落ち込みは、先ほど申し上げたリーマンショック時をはるかに上回っています。

 各国で航空会社の破綻が起き、経営統合も進み、さらに国内外で大型機材の退役が進んでいます。観光需要が回復した際、輸送力が従来通りに確保できるのか、という懸念もあります。

 ワクチン接種後のブレークスルー感染の問題もあり、予想はしにくいのですが、インバウンドも含めた観光需要がコロナ前の水準に戻るのは、2020年代半ば以降ではないでしょうか。

 編集部――最後に読者に向けたメッセージをお願いします。

 宮崎社長 現時点ではいつとは明確に申し上げられませんが、私たちオークラは必ず、愛着の深い、この札幌の地に戻って来ます。

開会式の行われた真駒内競技場
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70m純ジャンプで日の丸飛行隊の活躍に日本中が大歓喜!!!

札幌の街は一新した。

札幌五輪への思い

私は当時高校3年生でした。オリンピックを意識できたのは小学校時代です。そう、10歳の私は、1964年の東京オリンピックに人生で初めて感動しました。特に当時の市川崑監督の記録映画の「東京オリンピック」は映像、音声ともに子供の感覚には当然神聖なものであり、一遍に心掴まれてしまいました。
 そして、札幌にオリンピックが近づく頃、街は大きく変化してゆきます。オリンピック施設の建設はもちろん、道路、地下鉄南北線の開通、地下街の設置、市役所新庁舎の建設、それに伴う、多くの人の流れが一挙に集中したような活気に満ち溢れました。当時は多くの高校生などが聖火ランナーなどに動員され、自分の昔の同級生も動員されました。そのころの実行委員会の皆さんが若い人にこの時代的財産を残すと言う熱意を感じざろう得ませんでした。

 この左手の写真の宮の森シャンツェで行われた70m純ジャンプでの笠井さん、青地さん、金野さんの日の丸飛行隊は、本当にドラマを見るような感動を覚えました。
 実は私、現地で見たんですよ。試合当日は会場までバスの通行が制限され、観客の皆さんは随分と厳寒の中、歩きました。私の子供時代は既に終戦時の駐留軍の姿は少なく、千歳に米軍基地があったかもしれません。ですから、外国の人達がこんなにたくさん歩いているは初めて見ました。着ている者がカラフルで、当時の未だ裕福ではない日本人に比べると、皆さん暖かそうに見えました。競技が始まると、もう大変です。「きゃぁあー、ぎゃぁーあ!」飛越が見えるたびに、とくにおばちゃんたちの叫び声がすっごい!!金銀銅の独占が決まり、表彰式が終わっても群衆が会場から引き揚げない。しかも、何故かわからないが、帰り道は全然、寒さを感じなかったのを覚えています。恐らくは興奮で体内の血流が駆け巡っていたのかもしれません。 一生の思い出となりました。

  札幌オリンピック、ありがとう。

当時話題を呼んだチェコVSソ連
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昭和天皇の思い。

 昭和天皇が北海道を行幸されたのが、大正11年摂政の宮として来道され、その後、昭和11年の二二六事件を乗り越えた北海道特別大演習、昭和25年敗戦後復興の北海道視察と、多くの場で、道民や、アイヌ民族にも深い御心をお見せになることが多く、この、札幌五輪の開会宣言にも、深い思い入れを感じます。

 明治帝が大八島以外の蝦夷地に大那無知の神の尊、少彦名の尊をたまわり、地元の神大国魂の神を添えて、札幌神社を興され、深く皇室が思いを込められていることを私たちは知っています。それは他の巡幸地にも負けず、訪れるごとに賜われるものの大きなことにも表れています。

 東京五輪、札幌五輪の開催が、戦後の復興日本を多くの時間をお掛けになって、巡幸され、人々にお声を掛けられてきた、一人の人間天皇としての思いを感じないわけにはいきません。 

 昭和天皇に対しては色々な意見をお聞きしますが、私の様な老僕は一人の人間として、多くのつらい決断をされ、苦渋の思いを見せず孤高のうちに過ごされた人生に深い敬愛を覚えずにはおれません。北海道神宮は明治帝をお祀りしていますが、縁深き昭和天皇も是非お祀りできる日が来ることを心より、願っております。

厳寒の開会式に昭和天皇皇后陛下参列
高石真五郎氏
シュランツとブランデージの強い思い
ここに掲載してる写真は全て北海道新聞社昭和47年2月20日発行「札幌オリンピック第11回冬季大会」よりの転写です。
シュランツの記者会見
開会宣言をされるブランデージIOC会長
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シュランツとブランデージ 二人の恩人

 1972年札幌オリンピックの開催は当時の北海道、札幌の世界的な印象を大きく変えた市民にとっても、素晴らしいイベントでありました。アジアで初の冬季五輪は、1964年に行われた、東京オリンピックに次ぐ戦後日本の復興を世界に示す為に大きな意義があり、そこには多くの人の意義達成のための心血を注ぐ努力がありました。

 そしてその中でも特筆すべき記憶を後世に残すべき事件がありました。ご存じの方もかなり少なくなりつつありますが、「シュランツ事件」と呼ばれた出来事があり、当事者は米国人IOC会長ブランデージと、当時世界最高のアルペンスキーの競技者オーストリアのカール・シュランツです。

 ブランデージ会長はアマチュアリズムの権化ともいわれる人物であり、かたや、カール・シュランツは、世界選手権では常に優勝を重ねるほどの実力者で唯一その手に掴んでいないのがオリンピックのメダルのみ、その獲得のため競技生命の最後をこの札幌オリンピックにかけていました。

 当時の欧州のアルペンスキーはすでにプロ化しており、世界選手権を闘うにはスポンサーなしでは余程の裕福な者でなければ、競技すらできないのが実情でありました。

 そのような実情を知っているブランデージ会長にとっては、冬季オリンピックの存在そのものが「アマチュアリズム」に反するように感じていたのかもしれません。冬季五輪を発議したクーベルタンを呪っていました。欧州スキー連盟との確執は開会式の3日後札幌市内のホテルでのシュランツの出場資格のはく奪という決議に表れます。しかも、欧州の選手すべての資格にまで言及し始めます。

 オーストリア選手団は抗議のため、欧州スキー連盟も一斉に選手の引き上げを宣言する寸前まで、札幌五輪の開催に深い傷を負いかねない状況に追い込まれます。しかし、この喧騒の中、カール・シュランツは、オーストリアや欧州選手団を説得し、自分一人がすべての十字架を背負い札幌の地を離れる決断を告げます。

 シュランツは札幌オリンピックを救い、オーストリアへ、英雄として凱旋します。そして、ブランデージ会長はこの札幌オリンピックを最後に引退し、1974年IOCはその規定の中から「アマチュア」の文言を削ります。1975年ブランデージは逝去します。

  1940年決定事項であった東京、札幌のオリンピック開催は太平洋の荒捲く波の中で開催を中止します。戦後、1950年日本はIOCに復活、委員であった高石真五郎は病床にあり、ブランデージ会長に「札幌に30年待った花を咲かせてほしい。」と願います。東京、札幌と、日本の復活のため、親日家ブランデージは、疑問視する他の欧州委員を説得、二つの大会を成功させます。札幌が冬季オリンピックを大成功のうちに終わらせたことにより、冬季オリンピックは存続は確立しました。ブランデージはどう思っていたのかは知りません。だが、少なくとも、この二人がいたからこその札幌オリンピックがその大きな結果を生み出せたのだと信じています。

                                                                  2022 03 21  Atsushi Saito

“Shurantsu and Burandeji – Two Benefactors

The 1972 Sapporo Olympics was a wonderful event for the citizens of Hokkaido and Sapporo, who were greatly impressed by the world at that time. The first winter Olympics in Asia had a great purpose to show the world the recovery of post-war Japan, following the Tokyo Olympics held in 1964, and there were many people who put their hearts and souls into achieving this goal.

And among them, there was an event that should be remembered as a remarkable memory for future generations. Although there are fewer and fewer people who know about it, there was an incident called the “Shurantsu Incident,” and the parties involved were Avery Brundage, an American IOC chairman, and Karl Schranz, the world’s top alpine skier from Austria.

Brundage was said to be the embodiment of amateurism, while Schranz was a skilled athlete who had won many victories in the World Championships but had not yet won an Olympic medal. He had staked his athletic life on winning a medal at this Sapporo Olympics.

Alpine skiing in Europe at that time had already become professionalized, and it was a reality that one could not compete in the World Championships without a sponsor unless one was very wealthy.

For Brundage, who knew this reality well, the existence of the Winter Olympics itself may have seemed to go against “amateurism.” He cursed Coubertin, who proposed the Winter Olympics. The conflict with the European Ski Federation was reflected in a resolution to disqualify Schranz’s eligibility to participate in the competition at a hotel in Sapporo three days after the opening ceremony. Moreover, it began to refer to the qualifications of all European athletes.

The Austrian team was pushed into a situation where it could cause deep damage to the Sapporo Olympics by declaring that all European Ski Federation athletes would withdraw from the competition in protest. However, in the midst of this turmoil, Karl Schranz persuaded Austria and the European team to withdraw from the competition and announced his decision to leave Sapporo alone with all his crosses on his back.

Schranz saved the Sapporo Olympics and returned to Austria as a hero. Brundage retired after this Sapporo Olympics, and in 1974, IOC removed “amateur” from its regulations. Brundage passed away in 1975.

The decision to hold the Tokyo and Sapporo Olympics in 1940 was canceled due to rough waves in the Pacific Ocean. After World War II, Japan revived with IOC in 1950. Shingo Takeda, who was a member of IOC committee and bedridden at that time, wished Brundage to “make flowers bloom in Sapporo after waiting for 30 years.” For Japan’s revival through Tokyo and Sapporo, Brundage persuaded other skeptical European committee members and made both events successful. The success of the Sapporo Winter Olympics established its continuation. I don’t know what Brundage thought about it. But I believe that it was precisely because of these two people that the Sapporo Olympics produced such great results.”

                                                              2022 03 21  Atsushi Saito
真駒内屋外スケートリンクにて開会式OLYMPUS DIGITAL CAMERA
当時は記念切手が趣味の人もたくさんいました。当時はね、まだ明治に生まれた人達が沢山いました。開拓時代を知っていた
彼らが何を感じていたのか。
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最近当時の思い出を紙面で語った妖精ジャネットリン OLYMPUS DIGITAL CAMERA
大倉シャンツェはなにがあるの?
と言われますが、行けば楽しいところですよ。