北海道酪農の父
ダンは1848(嘉永元)年7月、オハイオ州スプリングフィールドで生まれました。ダンの家は祖父の代に英国からこの地へ移民としてやってきました。エドウィン・ダンの青年期には父親が1万5000エーカーの大牧場を経営するまでになっていました。ダンはオハイオ州立マイアミ大学で法律を学んでいたが中退し、父の牧場経営に参加するのです。牧畜業全般について習得するとともに、競走馬の育成も学び、これが後の北海道競馬育成にもつながっていくのです。
明治維新の7年前のことですが、1865年、65万人の死者を出して終結した南北戦争は、米国経済に大きな打撃を与えました。ダンの農場経営も経済不況の中、土地や牛・羊を手放さねばならず、残ったのはわずか500ドルの現金のみでした。
そんな最中、ホーレス・ケプロンの息子A・B・ケプロンがダンの元を訪れました。ケプロンはダンに、牧畜に関する最新の技術と経験を北海道で生かしてもらいたいと要請します。期間は1年間です。ダンは契約書にサインしました。でもね、ダンはホーレスケプロンの開拓使におけるアドバイザーとしての手腕には疑問を持っていて、回想録には厳しい言葉が残っています。開拓使内部でもケプロンとのトラブルは色々と残っているのですが、もともと米国では大臣級の人ですから、言動に不注意なことがあったのかもしれませんね。
1875年(明治8年) 北海道の七重の官園に5か月長期出張し札幌官園、新冠牧場も視察し、農業技術、畜産技術畑作など幅広く指導します。1876年(明治9年)、ルイスベーマーと共に札幌官園に転勤し、真駒内牧牛場の建設に着手し、搾乳場、乳製品加工場、用水路など、酪農のインフラ整備をしていきます。
左記に表示している「真駒内用水路」は明治12年に完成したが、真駒内川より取水し現在の中央公園の池を通過、陸上自衛隊駐屯地を通り精進川に注ぐ4kmのかんがい用水である。家畜の飲料と農業用水、水車の稼働力などに用いられ、広く平岸、豊平、白石まで用水の供給に利用された価値ある整備資産でした。のちに創成川となる当時の大友堀にも匹敵する事業でした。
右の写真の下は2番目の奥さんのマヤさんで、上が最初のツル夫人とありますが、これはちがったようで、現在は掲示されていません。誰だったんだろう?第三夫人?あっ、たいへん軽率なことを申し上げました。申し訳ございません。
いつもおられる先生
ここはエドウィンダン顕彰会が運営されていて、訪れた当日は、園原廣子先生がご在籍でした。お忙しい中いろいろなお話を長い時間をお掛け頂き聞くことが出来て、とても充実した一日となり、大変感謝しています。コロナ禍でお客様が来られなくなった折、左記にあるエドウィンダンかるたをおつくりになったそうです。絵もすごくきれいなのですが、上記の読み札も大変ご苦労されていて、外国のお客様にもわかるように英文訳もお知り合いのネィティブの方が頑張って1日で訳されたそうです。絵札が少し大きいのですが、あまり小さいとせっかく詳細まできれいに製作された価値がなくなってしまうことを避けたためだそうです。近隣の学校にも配布されたそうです。北海道の畜産業の発展に貢献されたエドウィンダンを顕彰する立派なお仕事だと思いました。ここで、販売すると良いかもしれませんね。
1878年(明治11年)日本人の妻ツルとの間に長女ヘレンが生まれる。5歳になったヘレンを妻が病床の為、米国に連れ帰り、妹のブラキストン夫妻に養育を依頼する事としが、ツルは1888年(明治21年)28歳の短い一生を終えてしまう。ダンはその後廻りの強い勧めで、日本人中平マヤと再婚して4人の男子に恵まれる事になる。
宮内省所管の北海道新冠御料牧場
明治 5 年 (1872年) 北海道開拓使長官黒田清隆により、北海道産馬の改良を目的として、日高管内の静内・新冠・沙流の三郡に及ぶ約7万ヘクタールの広大な用地に創設される。
明治10年 (1877年) 開拓使雇エドウィン・ダンの意見と設計に基づき、近代西洋式牧場として再編整備され「新冠牧馬場」と改称する。
明治17年 (1884年) 宮内省の所管に変更される。
明治21年 (1888年) 場名を「新冠御料牧場」と改称する。